忘れん坊の外部記憶域

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民主的な話し合いの心得と、闘技的思考の排除

 話し合いは多義的なニュアンスを持つ日本語ですが、基本的には議論や会話を意味します。

 そして議論や会話とは、言い争いや討論とは違って闘争的ではない言葉です

 ただ、残念ながら「話し合い」のことを「果し合い」だとでも誤解しているのではないかと、そう疑ってしまうような事例が世間では散見されます。温和な話し合いを拒絶し、自らの意見を押し通して相手の意見を叩き潰そうとする人は何処にでもいるものです。

 

 よってここで一つ、「話し合い」が意味する行為の再確認と心得を整理してみましょう。

 

言葉の意味と、話し合いで必要なこと

 冒頭で述べたように「話し合い」は多義的な言葉ですが、基本的には議論(Discussion)や会話(Conversation)を意味します。

 議論(Discussion)は討論(Debate)とは異なり戦いではありません。双方がより望ましい地点へ到達するために協業することを意味しています。

 会話(Conversation)も日常的で気楽なコミュニケーションであり、争うニュアンスは含みません。

 つまり、話し合いは本質的に戦いとは遠い行為です。

 

 討論の目的は【説得:相手を打ち負かすこと】です。

 互いに持ち寄った論理をぶつけ合い、白黒はっきり付けることを目指します。よってそのプロセスでは攻撃として相手の論理の瑕疵を指摘し、防御としてこちらの論理の頑強さを固めることを行います。

 

 議論の目的は【相互理解:より良い結論を出すこと】です。

 それぞれ論理を持ち寄りはしますが、それをぶつけ合うのではなく差し出し合い交換を行うことでより望ましい論理を構築することを目指します。よってそのプロセスでは攻撃や防御の区別なく、適切であれば他者の論理を採用して持論を取り下げることもままあります。後付けで論理に肉付けを行ったり、それぞれの論を混合することも自由です。

議論(ディスカッション)と討論(ディベート)は目的もプロセスも異なる - 忘れん坊の外部記憶域

 

 よって闘技的な心構えで話し合いに挑むことは不適切です。自らの意見を押し通そう、相手の意見をねじ伏せよう、そういった気持ちは話し合いの場では控えねばなりません。

 

 次に、話し合いにおいて自論に固執することは望ましくありません。

 むしろ話し合いとは自論を打ち壊す行為だとした認識が必要です。

 議論を意味するディスカッション(Discussion)はラテン語のdis(分離)とcus(揺さぶる)を組み合わせた言葉です。それぞれの持ち寄った意見を揺さぶって分離し粉々にすることがディスカッションであり、自論に固執していては議論が成り立ちません。

 また会話を意味するConversationはcon(共に)とverse(回す、向きを変える)とtion(こと、もの)を組み合わせた言葉です。これは物理的に向き合うこと以外に意見の向きを変えることも意味するでしょう。

 つまり話し合いにおいて自らの意見は押し通すのではなく変えることが前提です。他の意見を駆逐して生き残った意見を見つけるのではなく、それぞれが持ち寄った意見を分解し再構築することで新たな意見を生み出すことが話し合いです。

 

 これは過去に述べた例が理解の一助になるかと思います。

 料理で例えると分かりやすいかもしれません。

 討論とは、それぞれが完成品を持ち寄って、見た目や味を競い合うものです。目的は自身の完成品が一番を取ることであり、それは同時に相手の完成品を一番から引き摺り下ろすことでもあります。

 議論とは、それぞれが素材を持ち寄って、どんな料理を作るか考えるものです。目的は皆が満足する料理を作ることであり、そのためにどうするかを話し合います。

議論(ディスカッション)と討論(ディベート)は目的もプロセスも異なる - 忘れん坊の外部記憶域

 話し合いにおける自らの意見は「調理前の素材」です。

 

話し合いの文化的な違い

 国民性や文化的ステレオタイプによる分析はあまり意味をなさないものであり、一種のたとえ話になりますが、日本人と欧米では「話し合い」の言葉が持つ文化的な意味が違うのではないかと考えています。

 

 人種・言語・宗教など様々な文化的隔たりを持つ人々の接触が多い大陸系の欧米社会では構成員の共通点が少ないことから、話し合いを『互いに理解し合えないことを前提に、それでも落としどころを見つけるための行為』だと考えている節があります。意見は話し合いの場で分解されることを前提としているため、人格と意見は同一視されておらず、意見とそれを出力した人格は別物です。

 対して島国かつ異なる文化圏との接触が少なかった日本では構成員に欧米社会のような属性的分断が少ないため、話し合いを『互いに理解し合い同じ考えに至るための行為』と考えている節があります。それぞれの意見を分解して再構築するのではなくどれかしらの意見に迎合する行為であり、意見の分解は前提になっていないことから、人格と意見の同一視が生じます。だからこそ日本語の「話し合い」には会話や議論には存在しないニュアンス、例えば同化談合の意味が多少なりとも含まれているのではないでしょうか。

 話し合いを『互いに理解し合い同じ考えに至るための行為』と捉えること自体は悪いことではありませんが、人格と意見の同一視は望ましいことではありません。同一視が生じると自らの人格を守るために自論へ固執して他者の意見をないがしろにする闘技的な思考に至る可能性があります。

 

結言

 民主的な話し合いとは、欧米的な意味合いです。人によって立場や利害は異なることが当たり前で、意見や感情は一致していないことが前提であり、それでもそれぞれが納得できる結論へ至るまで皆で意見を持ち寄り努力して利害調整を行う行為が「民主的な話し合い」です。

 「話し合い」が闘技的思考による「言い争い」や「果し合い」にならないよう、私たちは話し合いの持つ意味と必要な心得について見直す必要があると考えます。