忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

議論を口喧嘩に劣化させる着火源

 なぜ人は犬派と猫派で争うのだろう。やはり人類は愚かなり・・・

 

なんてよく分からないフレーズから、今回は議論のお作法について考えてみましょう。

 

上げ下げ

 犬派猫派の論争が時に荒れる理由はとても単純で、相手の愛着対象を下げるからです。そうせずに自らの愛着対象を互いに上げている状態ならば論争には至りません。

「僕は犬が好きなんだよね、素直なところが可愛いと思うんだ」

「そうなんだ、私は猫が好きかな、愛嬌があって丸っこくて可愛いよね」

 

 このような他愛のないコミュニケーションですら時に争いが生じるのは、どちらかが相手の愛着対象を下げ始めた時です。自らの愛着を上げるために相手の愛着を下げることで論争は着火します

「僕は犬が好きなんだよね、猫みたいに自己中じゃないから」

 あるいは

「えー、犬が好きなんだ、犬は吠えるから近所迷惑だよ」

 これはもう論争待ったなしでしょう。バトルモード突入です。

 

愛着は強烈な感情

 人の愛着はまったくもって侮ってはいけない感情です

 愛着は別名を貪・貪欲・我愛と言い、仏教における三毒、すなわち三大煩悩のうちの一つとされています。愛着は人の感情の中でも極めて圧倒的で、他の感情や理性を優越するほどに強力なものです。

 人は自らの意見を否定される程度ではまだ理性が働きます。自らの行動を批判されてもまだ我慢ができます。しかし愛着を否定されることはそうそう許せるものではなく、その否定者は”異なる意見を持った人間”ではなく憎悪の対象である””に成り果てます。

 要するに人の愛着とは”虎の尾”です。それを踏むことは調整や折衝の間もなく即座に敵と認定されるほどに強烈な行為なのだと努々承知しておく必要があります。

 

人に石を投げてはいけません

 つまるところ議論のお作法として『相手の愛着対象を下げないこと』が必須です。たとえ軽い気持ちで言ったとしても容易に議論の場ごと爆散させる強烈な地雷となりえる以上、それはもはや宣戦布告に等しい行いだと認知しておく必要があります。

 

 世間やネットで行われている論争の大半はこの類型だと言ってもいいかもしれません。

 政治・経済・個性・属性・作品・趣味嗜好などなど世の中では様々なテーマにおいて非建設的な言い争いが起こっていますが、これらが建設的な議論にならず論争とは名ばかりの口喧嘩になっているのはそれらが二項対立的事象だからではありません。たとえ二項対立であったとしても建設的なディスカッションやディベートは可能だからです。

 もっと単純に言えば、意見が異なること、意見が分断していること自体は問題ではありません。たとえ双方の間に見解の相違、大きな分断の崖が生じているとしても、それはただ異なる意見をもった別々の集団が崖の両岸に立っているだけです。ただ両者の間に亀裂があるに過ぎません。

 分断が問題になるのは分断があることそのものではなく、対岸に向かって石を投げるからです。石を投げられればそれは当然怒りが沸きますし、反撃をしたくもなるでしょう。

 相手の愛着を否定するのは石を投げる行為に等しいものです。だから議論が成り立たずに喧嘩となります。相手の愛着対象を下げる行為は適切な議論や討論へ発展できずに口喧嘩へ劣化させる着火源に他なりません。

 

結言

 議論において適切な批判を行うことは難しいものです。下手を打てば相手の愛着を下げかねませんし、人によっては他者の批判を「愛着を下げる行為」だと誤認することもあります。

 もちろん批判は必要な行いです。ただ、それが相手の愛着を下げる行為とならないよう真摯に言葉を練り意図を伝えなければなりません。有益なツールが常に安全ではないのと同様に、批判は刃物だと思って慎重に扱うべきです。

 そして批判ではなく相手の愛着を下げる行為は少なくとも建設的な議論を求めるのであれば慎みましょう。もちろん批難や誹謗中傷は以ての外です。