忘れん坊の外部記憶域

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トーン・ポリシングに対する疑義と考察

 トーン・ポリシング(Tone policing)とは意見の内容ではなく意見を述べる際の口調や論調に対して否定的な態度を取ることで意見の妥当性を損ねる行為であり、大まかに言えば論点のすり替えです。

 最近の事例であれば、ジャニーズ事務所の記者会見で代表取締役が報道陣の強い口調を嗜めた行為がトーン・ポリシングにあたると批判されているのを見かけました。

 

 もちろん他者の意見の妥当性を貶める目的で行われるトーン・ポリシングは詭弁に他ならず、当然批判されて然るべきです。

 ただ、トーン・ポリシングを指摘する行為が必ずしも錦の御旗として使えるか、あるいは詭弁を粉砕できる銀の弾丸であるかには個人的に疑問を持っています。

 

第三者の支持を失うことのリスク

 私自身は「誰が言ったか」や「どう言ったか」よりも「何を言ったか」を重視する考えを持っていますが、「何を言ったか」を広く喧伝するためには「誰が言ったか」「どう言ったか」の要素を無視してはいけないとも考えています。

 人は皆誰しも何らかのバイアスを持っており、それを完全に除去できると考えるのは夢想家の所業です。現実には自身の認知バイアスですら適切に補正できるとは限りませんし、ましてや他者の認知バイアスをどうこうすることなどできません。

 よって、たとえどれだけ「何を言ったか」が重要だとしても、それを伝えるためには「どう言ったか」への配慮が必要です。

 「どう言ったか」への配慮を怠ると、トーン・ポリシングを意図して意見の妥当性を損ねようとする人以外の”争い事や罵言を好まない穏健派”や”理性的な議論を好む実務家”といった外野の人が「何を言ったか」を聞き入れてくれなくなるリスクを負うだけです。それは議論の相手を論破するために支払う代償としては釣り合っていないと考えます。

 

 もちろんこれは逆の立場でも同様です。

 相手の口調に難色を示すこと自体は正当ですが、それは論点をすり替える妥当な理由足り得ず、ただ口調や論調を指摘するだけでは詭弁の誹りを免れません。相手の口調に意見をするならば同時に相手の意見を受け止めて論点をすり替えない誠実さを示す必要があります。相手の口調や論調を指摘する際にも「どう言ったか」は重要だということです

 

無意識の権威者を批判する無意識の権威者

 元々トーン・ポリシングには立場の違いや権威勾配は考慮されていないものですが、一部では立場や権威の違いによってトーン・ポリシングを指摘する権利があると考えられています。「トーン・ポリシングの指摘は社会的弱者が不均衡な権威勾配を是正するために用いるべき道具であり強者が用いることは許されない」といった意見です。

 たしかに社会的な弱者、例えばマイノリティ性を持つ人はマジョリティに対して発信力が弱い傾向があり、主張の際にはより大きな声を張り上げる必要があります。それを強者がトーン・ポリシングによって制限することは権威勾配による無意識の抑圧や弾圧だと捉えられても仕方がないことでしょう。

 よって「弱者のみがトーン・ポリシングを指摘することができる、これは格差是正策であり、一種のアファーマティブ・アクションとして機能するものだ」と考える発想は自然なものだと思われます。

 

 その理屈は理解できますが、しかしあまり同意いたしかねます。

 あまり適切ではない事例だとは思いますが、弱者側には権威勾配を打破する暴力的な表現が許されるなんて、それは紅衛兵が用いていた"破四旧"に類似した発想です。

 【権威者・強者に対しては横暴なアクションが許される】

 この理屈をもって一方的に暴力の許可を付与すること、それはある種の特権であり権威に他なりません。よってその理屈は弱者に強者性を帯びさせることに等しく、弱者であるからとする根拠を失いかねません。

 文化大革命において同様の理屈をもって暴力を許容していた紅衛兵は、最終的に自らの権威性をも打ち倒す必要があると内紛状態になり、自家撞着によって破綻することと相成りました。

 その結末から考えるに、無意識の権威者を批判する際に自らも無意識の権威者になるのは下策ではないかと私は思います。

 

結言

 より個人的な見解となりますが、人間工学にも携わる一介の技術屋からすれば権威勾配は適切に設計されて管理されるべきものであり、権威勾配が無いことは必ずしも良いとは思わない側のため、何がなんでも権威勾配の解消を図ろうとする行為にはあまり同意いたしかねます。

 それよりは、たとえ権威勾配が存在していようとも互いの人権を尊重してコミュニケーションを取れるアサーティブな状態、権威勾配を打破するのではなく権威勾配への自覚をもってそれぞれが振舞う状態が望ましいと考えます。

 つまりはアサーションです。強者が無自覚に弱者の言論を封殺することも、弱者が強者の人権を抑制することも先細りや分断に繋がる望ましくない行いです。それよりも双方でトーン・ポリシングの濫用を避けて、権威を押し付け合って争うのではなく敬意を持って互いに人権を尊重し合う姿勢を持つことだけが唯一発展的な関係性を構築できると考えます。

 

 もちろんこれは理想論に過ぎない見解であり、現実の言論空間で直ちに適用できるものだとは考えません。ただ、いずれはそのような方向に向かっていくことを夢想します。