マイケル・サンデル教授へのインタビューが少し話題になっています。記事の前編では『愛国心』がテーマです。
──左派は、愛国心について語るのを恐れているのでしょうか?
その通りです。彼らは、愛国心という言葉にアレルギーのような反応を示します。愛国主義はいまや右派の専売特許と見られています。右派はこの言葉を、きわめて効果的に利用しているのです。
これは本邦でも同様でしょう。右派は愛国心を語り、左派は愛国心を忌避しています。
今回は珍しく一つの記事を取り上げて、愛国心に対する論考をしていきます。
愛国心の不定形さ
愛国心は右派からすれば共同体意識やアイデンティティの根底にある肯定的なものとして捉える概念であり、左派からすれば排外的で狭量な否定的なものとして扱う概念とされています。
立場によって好悪が入り混じるこのような概念は何も愛国心に限った話ではなく、何かしらへの愛着は全て同様の構造を持ちます。個人を愛する人はその個人以外を明確に区別しますし、それは家族・郷土・国家と規模が変わっても同様です。
愛着とそれによる区別は程度問題であり、良否の判別は度が過ぎるかどうかです。
例えば他者の子どもよりも我が子を優先的に扱うのは親として当然の愛着ですが、だからといって他者の子どもを邪険に扱うことまでが許容されるわけではありません。愛国心も同様、共同体に対して愛着を持ちアイデンティティを置くことは許容範囲と見なされますが、共同体以外へ攻撃的であったり排外的であることは度を越していると判定されます。
愛着には良否の両側面があり、左派と右派はそのどちらを重視しているかで愛国心の肯定・否定が分かれています。
愛国心は弱者のためのもの
権力者が語る醜悪な形での愛国心であれ、人々が考える素朴な形での愛国心であれ、いずれにしても多くの場合で愛国心を必要とするのは弱者です。国家に頼る必要が無い強者は殊更に愛国心を保有する必要はありません。もちろん愛着が根源である以上皆無ではありませんが、大抵の場合では個の能力で確固たるアイデンティティを確立しえない弱者が愛国心を必要とします。
そういった弱者を支配的に扱うための道具として愛国心が悪用された歴史的経緯を踏まえれば、愛国心自体への忌避感があることは必然です。
しかし、冒頭の記事においてマイケル・サンデル教授は左派が独自の肯定的な愛国心を提示することが必要だと述べています。
愛国心を否定するのではなく右派とは異なる愛国心を打ち立てるべきだとする発想は、とても理性的で、ある意味感情的で、そして論理的な意見です。
左派の視点では愛国心は差別的なものに映ります。伝統的な構造を否定して個人が自由で平等な権利を持つことを重視する左派リベラルからすれば、排外的で狭量で頑迷なナショナリズムは人々の平等を阻害する悪以外の何物でもありません。
ただ、シュクラーが述べるようにリベラリズムの寛容の源泉として「残酷さこそ我々の為しうるなかでもっとも悪いことだ」「世の中における残酷さと苦痛を最小にすべき」と主張する人々をリベラリストと呼ぶのであれば、左派リベラルがなぜ平等を求めるかの根源的な部分には弱者救済の精神が多少なりともなくてはならないと私は考えます。リベラルの語る平等とは弱肉強食ではなく弱者に資する形でなければならないはずです。
つまり、左派には愛国心に依存しなければならない弱者へ寄り添うためのロジックが必要です。愛国心に依拠しなければ自らのアイデンティティを確立できない弱者を愚か者と切り捨てて、そのアイデンティティを取り上げるような仕草は左派的ではありません。
弱者が寄り添わざるを得ない対象としての愛国心ではなく、より寛容で、より利他的で、より柔軟な愛国心の形を提示することが偏狭なナショナリズムから弱者を脱却させる術であり、真に弱者の救済になる。
この点を踏まえると、「左派が独自の肯定的な愛国心を提示することが必要だ」とマイケル・サンデル教授が述べている意味が腑に落ちやすいかと思います。
結言
つまるところ、様々な左派の著名人がバラモン左翼への警鐘を奏でる昨今において、冒頭の記事は新たな一つだと言えるでしょう。