忘れん坊の外部記憶域

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改革において抵抗勢力をボコすのは下策

 物事の変革や組織の改革において、抵抗勢力が生じるのは必然です。

 改革に抵抗する人々には様々な理由があります。単純に変化を嫌う気質であったり、改革によって失われる部分への執着心や改革勢力自体への敵愾心、あるいは論理的思考による反対や総論賛成各論反対など、無数に反対理由は挙げられることでしょう。

 何はともあれ単一の理由によるものではないことから、抵抗勢力の持つ力を個別に無力化していくことには時間が掛かります。その手間を厭い短期で改革を成し遂げるために抵抗勢力を実力行使で一掃したくなる気持ちが生じるのも止む無しです。

 止む無しではありますが、バトルモードに突入して抵抗勢力をボコそうとするのは下策です

 

現代の抵抗勢力は消え去らない

 古代や中世の時代であれば、改革時にバトルモードへ突入して敵対勢力や抵抗勢力をボコボコにすることには理がありました。なにせ全員生き埋めにしたりギロチンにかけたり奴隷にしたり家来にしたりと、抵抗勢力を抵抗できない状態にまで貶めることが許されていたからです。

 現代の人権意識においてそれは許容されることではありません。敗者は勝者に従わなければならないとするのはハラスメントの一種であり、敗者の生殺与奪を握る権利は勝者と言えどもありません。

 そのため、ある集団の改革においてバトルが生じた場合、抵抗勢力がボコされて消え去り無事に改革が進んでいく、なんてことにはならず、ボコされた抵抗勢力は依然として集団内に残ります。そして抵抗勢力はボコされたことによって恨みを溜め込んで一層強固な抵抗勢力となったり、あるいは戦力を引き抜いて独立することで集団の弱体化を招いたりと、改革の進展をバトル以前よりもあの手この手で阻害するようになります。

 

 すなわち、バトルモードへの突入は集団内で分断と混乱が生じる根源的な原因になり得ます。改革勢力の視点からすれば「せっかく良くするために改革を進めているのに保守的な抵抗勢力の連中が邪魔をするせいで上手く進められない、彼らが分断と混乱を招いているんだ!」と考えがちですが、その分断と混乱のトリガーは抵抗勢力の抵抗ではなく、改革勢力のバトルモード突入です。

 とても厳しい物言いとはなりますが、抵抗勢力をボコして消し去ろうとする発想は古代や中世のレベルであり、まったくもって現代的な人権意識ではありません。

 

改革を進めるためには

 物事の変革や組織の改革は必要不可欠です。変化が無ければ人も組織も生存競争を生き抜くことはできません。改革勢力は集団に必要な存在です。私自身、どちらかと言うまでもなく改革派です。現状維持ですら相対的には停滞だと考えるほどには改革を進めるべきだと思っています。

 ただ、取るべき手段は「より現代的な相互理解的コミュニケーション」であって、一気呵成に抵抗勢力を一掃しようと暴力的な方法を取るべきではないと考えます。やきもきするかもしれませんが、手間暇を掛けて抵抗勢力の持つ力を個別に無力化していくべきです。

 変化を嫌う気質に対してはドラスティックとならない道筋を用意し、改革によって失われる部分は仕組みを作ってフォローし、各論反対は丁寧に肯定へと導いていく。敵対者を攻撃するのではなく徐々に味方へ変えていく

 それは茨の道ではありますが、現代においては抵抗勢力を一掃できないこと、そして抵抗勢力はボコしても強固な抵抗勢力として残留することを考えれば、手間暇を掛けたほうがスムーズに改革を実現することができます。下手にバトルモードへ突入すると分断と混乱によって改革以前よりも集団のパワーが落ちかねません。

 現代においては、抵抗勢力をボコすことは改革をむしろ阻害しかねない下策です。

 

 

余談

 第二次世界大戦中の陸軍と海軍の関係が日本人には一番分かりやすい事例かもしれません。双方が部分最適を求めてバトルモードに突入しても相手が消え去るわけではないため、全体が弱体化する一方となります。「陸軍は反対する!」なんて無意味なデッドロックに陥らないよう、バトルモードへの突入は避けねばなりません。