忘れん坊の外部記憶域

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集団の合意形成における作法:過激派と穏健派の役割

 何かしらの問題が目の前にある。

 しかし人々がどう対応すべきか意見が定まらない。

 ある人はAをすべきだと言い、ある人はBこそが良いと主張し、ある人はむしろCだと提起する。

 議論が紛糾し喧々諤々の様相を呈するもまとまらず、結局は何も定められずに膠着してしまい、決定的な行動に至れない。

 

自由の宿痾

 このような事態は小さな集団における小さな問題でも起こり得ますが、集団の人数が多ければ多いほど、問題の規模が大きくなればなるほど発生しやすくなります。

 これは一種の大企業病として散見されますし、同様の事態に陥っている国家は無数にあることでしょう。特に先進国ではどこも社会の分断が課題となっており、この傾向が顕著に表れていると言っていいかもしれません。

 また、得られる情報が増えることでも意見の総数は相乗的に増加していきます。人々が得られる情報は不完全で、濃淡があり、その情報の解釈も人それぞれであることから、個々人が別々の見解を持つことは至極当然と言えます。

 そもそも誰もが同じだけ勉強し同じ情報を得たとしてもバックグラウンドの情報や個々人の価値観は異なることから、見解の相違は必ず発生します。これは善悪ではなく自然なことです。

 

 つまるところ、何らかの物事において主流な意見に対する反対派や否定派が登場すること、そして意見が割れて対立が発生するのは必然です。

 

 これは自由の宿痾と言えます。自由主義が発展して個人の自由と発信が尊重されればされるほど異なる見解が無数に発生し、それが衝突するのは避けようがないことです。

 社長がワンマンだと反対勢力を追放して機動的な経営戦略を実現できるように、独裁国家が暴力を行使して反政府組織を潰すように、戦時中に「戦争反対」とは口が裂けても言えなかったように、かつては権力や同調圧力によって少数派を多数派が押し潰すことで見解の相違による膠着は存在しないものとしていました。

 しかしこのような手法は現代の自由主義国家で取るべきものではありません。そういった抑圧からの解放欲求こそが自由主義の萌芽であったはずで、今更このような手法を行使することは自由の放棄以外の何物でもないでしょう。

 ある人が反対勢力を叩いて潰すような行為をしたいのであれば、自身は自由を否定する独裁的で抑圧的な権威主義者であることを少なくとも自覚的に行うべきです。かつてのような無自覚性が現代で許容されることはありません。

 

何が真の問題か

 では何も定めず何も決定せず対立したまま膠着を選ぶという選択肢、これも当然ながら有り得ないでしょう。何もしなければ何も変わらないわけはなく、維持をするにしても変革をするにしても人々は否応なしに決定的な行動を選択する必要があります。何も決めないのは停滞ではなく衰退です。

 

 このような事態に対して私たちが本質的に考えるべきことは「目の前の問題」そのものではありません。それは事象に過ぎず、真の問題ではないからです。

 もちろん個別の問題を解決することも重要ではありますが、目の前の問題だけを問題視してしまうと個別にその問題の是非を問うことになってしまい、議論が都度発散して知見の集約ができなくなります。

 そして世の中にはしばしば「恐らく大事になるであろうが目の前には見えない問題」が存在する以上、問題の是非を問うだけでは意見が纏まらないことだってあります。

 弥縫策を避けて様々な社会問題を解消するためにはもっと問題解決の構造的な部分を注視すべきです。

 

 つまり、私たちが真の問題だと捉えるべきは「集団の合意が形成できないこと」です。

 たとえ目の前の問題が実際に存在していようが存在していまいが関係なく、集団の行動を決定できないことこそが解消しなければならない課題です。「気候変動」だろうが「食糧危機」だろうが「ワクチンの薬害」だろうが「隕石の衝突」だろうが「2000年問題」だろうが「ノストラダムスの大予言」だろうが、その問題の真偽や蓋然性を語るだけでは延々と個別の問題で同じことを繰り返すだけになってしまいます。

 

過激派は衝突し、穏健派は去っていく

 なぜ私たちは合意を得られないのか、簡略化して例示しつつ整理していきましょう。

 

 ある問題に対して、二つの意見が存在したとします。

 意見の内訳を大きく層別すると、それぞれの意見には絶対に持論を曲げない堅牢な過激派とそこまで持論に固執しない柔軟な穏健派が両立されます。

 これらのうち、世間で話題になるのはそれぞれの過激派です。ラディカルなグループは声が大きいため単純に目立ちますし、絶対的な持論と明確な敵対者の存在を軸とした集団帰属意識が芽生えることで祭りのような娯楽性が生じるため、それに惹かれて人が集っていくからです。

 しかし異なる意見の過激派同士で合意に至ることはまずありません。過激派の原動力は前述したように持論の絶対性と敵対者の存在であり、対立意見を攻撃し続けなければ求心力を維持することができなくなるためです。

 

 時には一方の勢力が押し切ることで反対勢力の駆逐に成功するでしょう。それによって中世近代社会のように反対意見を圧し潰す権威主義的な合意が形成されることもあります。

 しかし先に述べた通り、現代ではこのような権威主義的行為は推奨されておらず世間の同意を得るのは難しくなっています。

 そのため、風船を圧し潰すと内圧が高まって反発するように、一方が持論を盾に圧迫すればするほど対抗勢力は逆に反発して強固な抵抗勢力へと変貌することになります。対抗勢力の強化は圧し潰す側の言説をさらに過激にする誘発因子となり、相乗的に過激派同士の論争は過熱します。

 この状態に陥った場合、元々過激派と同意見を持っていた過熱して折り合いが付かなくなった議論に双方の穏健派は参画できなくなることから意見の合意を諦めて去っていきます。残るのは先鋭化した過激派たちだけです。

 

 以上より、自由主義国家で意見の衝突が起こると、過激派同士の争いによって非対称的な均衡に至り、穏健派は議論から去り、分断と対立が継続されることで合意の形成とは程遠い結果へと落ち込みます。

 酷い場合は対立による摩擦が徐々に過熱していき、臨界点である均衡の破綻、暴力の行使にまで至ることでしょう。

 

集約と形成の二段階

 では言論空間において過激派を排除すればいいかと言えば決してそうではなく、過激派自体は必要不可欠な存在です。過激派は意見の旗印であり、問題を世間に周知させる広告塔であり、担ぎ上げるべき神輿です。初期段階における意見の集約という点でラディカルなグループの存在は必須だと言えます。

 しかし、ラウドな意見は確かに分かりやすく目立ちますが、それだけに固執してはいけないということです。

 

 集団の総意を決定する際には、意見を収集して出揃わせるための情報集約プロセスと、集まった意見を整理して方向性を模索する合意形成プロセス二段階が存在します。トップが方向性を決めた後に実務者レベルで会議を行って調整するような、政治やビジネスでよく見られるプロセスです。

 合意形成とはメディアで取り上げられない地味で退屈な実務者会議そのものであり、双方の穏健派が時間を掛けて粛々と擦り合わせを行うプロセスです。

 この合意形成プロセスにおいて情報集約プロセスの勢いのままに過激派を押し出してしまうと、相手も過激派を出さざるを得なくなり、過激派同士での衝突が発生して合意の形成どころではなくなってしまいます。

 

 つまり合意の形成を成し遂げるには対立意見の派閥全てにおいてラディカルなグループを脇へ寄せる努力が必要だということです。実務者会議の場にお偉いさんが参加してあれこれ口を挟むような状態は避けなければなりません

 

穏健派が主導するためには

 次に、穏健派同士での議論を行うにはどうすればいいか、方法を整理していきましょう。

 過激派を議論の場から蹴り出す。これは時には有効ですが、過激派の面子を潰す悪手になりかねません。面子を潰された過激派が議論を妨害するアンチへと変貌することが稀にあることから、これは最適な方法ではないでしょう。

 過激派が居ない所で議論を行う。これも状況によっては有効です。特に過激派が問題の当事者であった場合は冷静な議論を行える心境には無いため、第三者が別のところで議論をすることには意味があります。ただし穏健派が調整をしている横で過激派同士の衝突が過熱して暴走することがあり、そのせいで議論の場が台無しになることもあることからこれも理想的な方法ではありません。

 

 残念ながら現時点で最適な仕組み化をするのは難しくあります。各プロセスでの役割を過激派と穏健派で確実に分離することはできず、今の私たちにできるのは「周知と調整でそれぞれ役割が違う」のだということを理解し意識付けるしかありません。

 過激派は情報集約プロセスにおいて意見を収集して集約することに注力し、合意形成プロセスでは口を出さずに大人しく引き下がり見守る、または別の問題の周知へと乗り換えること。

 穏健派は情報集約プロセスを大人しく見守り、合意形成段階では過激派を丁寧に脇へ寄せてアサーティブに相手とコミュニケーションを図って調整していくこと。

 合意形成プロセスにおいて持論を曲げずアサーティブコミュニケーションが取れない人は脇に寄せることが許容される、むしろ脇に寄せなければならない、という概念を世間一般の常識となるよう世論を醸成すること。

 

持論を曲げない人同士が議論をしても意味が無い

意見を調整して合意を形成できるのは相手の話を聞ける人たちだけ

 

という当たり前のことを当たり前に行えるよう、社会全体が意識を変えていくしか方法は無いと考えます。

 それは難しいように思えますし、実際に人々の意識が変わるには時間が掛かるものです。しかし意識を変えるだけで改善が可能というのは、むしろ希望がある話でもあります。世の中にはどれだけ資源を投入してもどうにもならないことが無数にあり、努力だけでは改善しようがないことが溢れています。それに対して合意形成は努力さえあれば変えられる範囲であり、むしろ人類が克服可能であることが保障された、ただの一つの問題に過ぎないのですから。

 

結言

 個別の問題について議論することは必要ですが、それだけに執着せず、そもそもの合意形成のプロセスにおける作法を見直して改善すべきだと考えます。

 過激派は初期段階での原動力ですが、ある程度議論が進み始めたら穏健派にバトンを渡して一歩引くことが必要です。

 穏健派は初期段階では過激派のフォロワーですが、合意形成の段階では過激派に引き摺られることなく議論を主導して調整することが必要です。

 それぞれに役割があり、その役割を果たすことに注力することが合意形成へ至る道です。私たちは「自分の意見が通らないこと」を問題視するのではなく、「集団の合意形成に至れないこと」を真の問題とする必要があります。