物事を変革する場合に対して、当ブログでは時々、いえ、度々と言える頻度で「抵抗勢力を作るな」「対立意見と争うな」「攻撃をするな、協調を取れ」と述べてきています。
ざっとですが言及している記事を確認してみたところ、そこそこの数です。
社会を変革するのは意思(will)か、技術(technology)か
毎日違うことを書いている雑記ブログにおいて繰り返し述べている事柄であり、これは私の主張としてはかなり強い部類に入ります。
個人的な志向として争い事を積極的には好まない気質のようなものが無いわけではありませんが、とはいえ私自身は危害を受けた際に牙を剥くことを厭いませんし、暴力を行使することには反対ですが警察や軍事など抑止としての暴力は否定していないことから、純真無垢なパシフィストではありません。
抵抗勢力を生まず、対立意見と争わないことを推奨する意図。
これは感情や信念よりは、どちらかと言えば合理性によるものです。
手段が目的を変容する
目的と手段は概念としては別物です。目的を達成するために途上で行われる方法が手段と呼ばれます。
ただ、概念としては別物ですが、手段と目的は相互に影響を与え合う因縁関係となります。目的が手段を策定し、そして選んだ手段も目的へ影響を与えるものです。
そのため、目的を達するためにはどのような手段を取ってもよい、とはなりません。
例えば苦しんでいる人を救うことを目的として、『相手の話を聞いてあげること』と『覚せい剤を手渡すこと』は、たとえ苦しみから救うことが目的だったとしても決して同列だとは言えないでしょう。前者は善の影響を目的に与え、後者は悪の影響を目的に及ぼします。
これは意志の問題ではなく、自然の成り行きです。マザーテレサが言うように「行動は習慣となり、習慣は性格となる」ものですので、どのように行動したかの物質的な事象は精神的な側面にも影響をもたらします。
だからこそ手段と目的は方向性が合致していなければなりません。善なる目的を達するためには善なる手段以外を取るべきではなく、手段からの悪影響を受けないよう細心の注意を払わなければ目的は容易に引き摺られて変容してしまいます。
結言
物事の変革を試みる際、そこには人々や社会のために現状をより良くしたい善の気持ちが根幹にあるものだと私は信じます。
そうであれば、善なる手段を取ることが合理的かつ適切です。
そうせずに敵を作って争ったり、誹謗中傷や暴力によって他者を攻撃したりしては、酷い場合は手段の行使に酔って闘争が目的化しかねないものです。
たとえ最初は善なる目的であったとしても、不適切な手段を取っていればいずれそのメッキが剥がれて変質してしまいます。金属と同様に精神もメッキが剥げれば腐食を避けることはできません。
金属も精神も腐食を避けるためには合理的な方法を取る必要があります。それはつまり、そもそも腐食が生じないような手段を用いる、あるいは腐食環境下に置かないことです。