忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

絶対的な信念に対する不信感

 

 絶対的な信念やドグマを抱いている人と話す度に思うこと。

 

穏健派の言い分

 当ブログではドラスティックでラディカルな行動に対して批判的な記事を度々書いてきています。私は過激な行動を良しとはあまり考えません。基本的には穏健なほうが望ましいと思っています。

 

 私個人の信念を再度整理してみましょう。

 まず、物事をより良くするためには現状を変える以外になく、そのため変革にはまったくもって全面的に同意しています。改修の行われないシステムは停滞であり、停滞とは相対的には後退に他ならないものです。

 ただし変革を急進的に行うことに対しては批判的です。私は穏健かつ堅実に進めることを是と考えます。

 

 私は一点の曇りもない絶対的な信念のようなものを信じていません。

 そのような信念を抱けること自体は人間精神の素晴らしい側面だと思っていますが、絶対的な信念には他者の異なる考えを受容する自由度が無く、信念を押し通そうとする人は必然的に他者の考えを抑圧する結果を招きます

 よって絶対的な信念に基づいた社会変革の行動は強制力を持って社会を均そうとする急進的な動きへとなり、その信念に轢き潰されてしまう人が必ず現れます。それは寛容ではありませんし、そこには軋轢や衝撃を避けるための余裕・バッファも存在しません。

 そのような犠牲を払うくらいであれば、多少遅くとも余裕を持って日常の中で堅実かつ着実に手直しを続けていったほうが最終的な成果は大きいと私は考えます。

 

 「世の中における残酷さと苦痛を最小にすべき」を核とする信念をリベラリズムと定義するシュクラーに従えば私はリベラリストでしょうし、保守主義との対立を急進・革新と定義するのであれば私は保守主義者となります。

 率直に言えば中道派ではありますが、他の呼び方をするなれば開明的保守主義、或いは革新的穏健派などとも称することができるでしょうか。

 

 そのような思想のため、対立相手や抵抗勢力を叩き潰してでも即座に変革を進めるべきだとするドラスティックでラディカルな発想はあまり好みません。

 古代や中世であれば抵抗勢力を抹殺するようなムーブが許されたかもしれませんが、現代の人権思想ではそんなことは許されない以上、殴られた抵抗勢力はより強固な抵抗勢力へと変貌を遂げるだけです。それは改革の進展を阻害して停滞させるだけの悪手に他なりません。

 本当に変革を進めたいのであれば抵抗勢力を殴っている場合ではないと考えます

 

安易に振り回す鉈はいずれ奪われる

「この信念は正しいのだから反対する人はおかしい、啓蒙せねば、教化せねば、強引にでも押し付けねば、今すぐに社会へ実装せねば」

 

 そうなる気持ちは理解できますし、それはとても自然な人間心理です。

 ただ、それを安易に許容することはできません。

 それが許される社会では、強者が同じことをやるようになるためです

 

「この法案は絶対に正しく善であり、これに反対する勢力はおかしいから排除しよう」

 

 政治的強者にはそれができるだけの権力があり、こんなことを強者が言い出したら大変なことになります。

 これは率直に言って弾圧です。

 数多の独裁国家がこのような独裁者の個人的信念によって崩壊してきたことを考えれば、まったくもって許容される発想ではありません。

 

 強者には許さず弱者にだけ許す、なんて線引きは不可能です。

 第一に、人々の強弱は可変であるため「弱者は他者を弾圧してもよい」と特権を付与した時点で政治的弱者ではなくなります。

 第二に、利便性の高い道具は必ず悪用されるものであり、安易に振り回す鉈はいずれ奪われて強者が自儘に振るうようになります。

 よってこのような弾圧の発想は一律に不可とする他ありません。

 

結言

 直ちに物事を変革したいと焦る気持ちは分かりますし、強い信念を持てること自体は立派だと思っています。

 ただ、その絶対的な信念をもって他者を斬りつけることを私は是とはしません。

 そのような行動は己独りが裁定を下している行為として正しく『独裁』であり、自由と民主を好む人々にとっての敵に成り果てることは必定です。

 

 私自身、「これが絶対に正しい」と信じ込んでしまうことが時々あります。

 しかしそれはその正しさを理解しない他者が愚かなのではなく、その正しさを振り回そうとする己が愚かなのだと重々戒めています。

 その信念の善悪や是非がどうであろうと、たとえそれが本当に正しいのだとしても、それを振り回して他者を攻撃することは正しくない行為です。

 正しさは他者へ強制力を発揮する際の免罪符とはなり得ません。