よく行くお店の店長さんがそこそこに陰謀論を好む質だったのですが、コロナ禍でのワクチンをきっかけに年々深みにハマりつつあるのか近頃はかなりメジャーなところに触れつつあります。
先日も、東日本大震災や能登半島地震はアメリカの人工地震で日本への脅迫だと言い、1繋がりで9.11、3.11、1.1を関連付けたうえ、9.11のビル倒壊は不自然でアメリカの自作自演だと述べていました。
少し情報は古いもののトレンドを押さえており、実に勉強家です。
否定することの無意味と危険
以前から述べていますように、私としては個人で楽しんでいる範囲であれば他者の思想信条は自由だと思っています。
ですので、いちいち
「人工地震自体は実在するけども大災害を起こすレベルの地震を起こすためにどれだけのエネルギーが必要だと思っているのか、そのエネルギーで直接脅迫したほうがよほど手っ取り早いのではないか、わざわざやるなら東京でやるだろ常識的に考えて」
とか
「イランやアフガニスタンなど別の地域で発生した地震はなぜピックされないのか、そもそも9.11は地震じゃないし関係なくないか、というか1が並んだからなんだというのだ」
なんて突っ込みを入れるのは野暮というものです。
そう信じている人はそう信じている人以上でも以下でもありません。他者からの否定は無意味であり、それが公衆の不利益にならない限り許容されて然るべきでしょう。むやみやたらな否定の先にあるのは結局のところ何を信じるかの宗教論争に過ぎず、そこに陥っては穏健なコミュニケーションを取れなくなってしまいます。
もちろん家族がそういった方向に染まってSNSで情報拡散に熱中していたり食事中に騒ぎ出したりしたら日常に支障を来たすので掣肘したほうがよいでしょうが、それは赤の他人の私がすることではありません。
他者が何を信じていようが関係ないことです。
厳しい言い分になりますが、他者の誤りを指摘したがり他者の信仰を否定したいと思う人こそ注意が必要です。それは陰謀論に染まった人と同じ性質に他なりません。それが高じると”自らの信じるもの”を押し付ける、同じ穴の狢となることでしょう。
個人的な対応
「なるほど、そう考えるんですねー」
その手の意見に接する際の私の回答は大抵こんな感じです。
意見を持つ個人は尊重し、しかし意見の内容自体は肯定するでも否定するでもなく流します。
この個人と意見の切り分けはとても重要です。むしろ人格と意見を同一視することは危険ですらあります。その切り分けができていないと他者の意見を否定するのではなく他者の人格を否定するような仕草をしかねません。
カントが看破したように人格こそがこの世で唯一絶対的価値を持つものであり、その否定を受け入れられる人は居ません。他者の人格否定は絶対に攻撃的なコミュニケーションを引き起こします。
よって穏健なコミュニケーションを保つためには人格と意見を適切に切り分ける必要があることを留意したほうがよいでしょう。
結言
多くの場合で闘技的コミュニケーションは時間の無駄です。
もちろん絶対に不要なわけではなく必要なTPOはありますが、それは大抵の場合で意見を生業としている人に限定されます。普通の人が意見をぶつけ合ったとしてもお腹は膨れません。
ですので、穏健に行き、そして穏健に生きましょう。