忘れん坊の外部記憶域

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”悪いところだけ”を丁寧に刈り取ることが必要

 大抵の物事は、子ども向け作品のように善悪がはっきり分かれていることは珍しく、むしろ善悪で割り切れない複雑で複層的な構造を持っていることが一般的です。

 言い換えれば、世の中には「悪いことにも別の側面から見たら良いところもある」という状況が無数にあります。誰から見ても完全かつ間違いなく悪だとされる事象であればそれは自然淘汰的に排除されていくものであり、多くの”悪い”物事にはそれが残っている必然性や必要性が存在するからこそ継続していると言えるでしょう。

 今回はそんな悪い物事について考えていきます。

 

悪いとされる物事の側面

 例えば同調圧力は、自由を好む多くの人からすれば邪魔で、不快で、面倒な存在です。他者や集団に合わせなければならないというのは大抵の人にとって手間の掛かる行為に他なりません。

 しかしライオンやオオカミ、サルやハチのように社会性のある群れを形成する社会的動物は、大なり小なり同調圧力を保有しています。リーダーに従う、集団のルールに従う、コミュニケーションを取る、そういった同調圧力が存在するからこそ成し得る生存戦略です。同調圧力を順守しない個体は群れから排除されますし、同調圧力が力を失えば群れを維持することはできません。

 人間も同様です。個体としてはそこまで頑強ではない動物である以上、社会を形成することは人間が自然の中で生存する唯一の道です。誰もが他者の存在を気にかけず自儘にしていては社会が崩壊し、個となった人間は早いうちに絶滅への道を辿ることになってしまいます。よって多少の同調圧力に適応することは否応なしに必要なことと言えます。

 とはいえ同調圧力が面倒であることには変わりありません。人によっては同調圧力を悪だと言いたくもなるでしょう。これはまさに「悪いことにも別の側面から見たら良いところもある」の良い一例と言えます。

 

 他にも政治団体や宗教団体を例としてみましょう。個別の団体は取り上げませんが、近代社会では様々な宗教団体及び類似性を持つ政治団体が社会的に問題を起こしてきた歴史があります。

 これは構造的な問題です。何かしらの「善」を崇める少数の集団は、それを崇めない多数の他者を「悪」と定義せざるを得ず、論理的帰結として多数の他者が形成する一般的な普通の社会を「悪」であると断定するようになります。つまり「善」を崇める少数の集団は必然的に反社会性を帯びるものです。だからこそ社会的に問題を引き起こす蓋然性が高いと言えます。

 しかしこのような団体には地域の互助組織としての機能が存在し、それは無視できない規模を持っています。例えばある団体の勢力が優勢な地域では高齢者の孤独死が少なくなる効果が見込まれています。ボランティアや団体職員が団体の発行する新聞を毎日配る際に様子を見たり、定期的な会合によってメンバーの健康状態を把握するような行動を取っているためです。これも「悪いことにも別の側面から見たら良いところもある」の一例です。

 

悪い物事を排除する時の注意

 つまるところ、悪い物事の全てが悪いかと言えばそうではない場合が多く、何らかの利点がそこには存在します。というよりも、何らかの良い点を持っているからこそ悪い物事が継続されていると言い換えたほうが適切でしょう。

 

 だから悪い点にも目を瞑るべきだ、などと言いたいわけではありません

 物事の功罪は適切に天秤へ乗せて、罪のほうが重いのであればそれを排除することは必要です。たとえ良い側面が僅かばかりあったとしても、反社会的な組織が許されるわけではありません。

 

 ただ、その際に必要なことは、その物事が持っている「良い点」をどう処理するかに留意することです。その点を考慮せずにガムシャラに刈り取ってしまおうとすれば、農場で雑草を除去するために大量の農薬を撒くが如く、残すべき作物、残すべき良い点までも一緒に除去してしまうことになります。

 そのような一掃する行動を行った場合、「良い点」に強い価値を見出している人々は「良い点」を守るために強力な抵抗勢力に変貌します。それは決して批難するような行いではなく、抵抗勢力にも一理が存在すると言えるでしょう。

 抵抗勢力が誕生してしまっては雑草を除去するどころではなくなります。雑草を除去するどころか農薬の使用可否の段階で押し合いへし合いの悶着となってしまい、結局誰も何も行動が取れずに田畑は荒れ果てるばかりです。

 

 よって必要なのは有機農法のような丁寧なやり方です。

 どれが雑草でありどれが残すべき作物かをちゃんと識別し、丁寧に悪い雑草だけを除去するように刈り取らなければなりません。

 農薬の使用に反対する抵抗勢力からしても、その雑草は別に守りたいものではありません。彼らが守りたいのは「良い点」であり、雑草を抜いてもらえるのであれば文句を言う理由はありませんし、「良い点」が残るのであればむしろ抵抗するどころか協力してくれることでしょう。

 

結言

 確かにエイヤッと農薬をぶちまけてガっと雑草を処理したほうが楽に思えるでしょうが、それでは物事は上手く進みません。安易に一掃しようとして強固な抵抗勢力が誕生する事例は近現代史でも様々に見られてきた結果であり、私たちが歴史から学ぶべき教訓であると考えます。

 悪い物事に目を瞑るのではなく、しかし強引な方法を取ることで停滞するのでもなく、丁寧に物事を進めることが現代社会では求められていると、そう思います。