忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人の愛着を否定するのはリスクが大きい

 転職や異動によって新しい組織・集団に所属した際、その新しい集団の問題点を大声で悪し様に吹聴したり、元々所属していた人を責め立てるのはあまり望ましくありません。その新しく所属した組織・集団が古巣に比べてどれほど悪く不適切な環境だとしてもです。

 

新しい視点は貴重である

 他所から来たばかりのフレッシュアイ、岡目八目による新しい視点は元々所属していた人々では気付けなかった組織の旧弊や、習慣化し定常化した淀みを適切に看過し得るものです。

 そのような、新しい人からすれば明らかに目に見える問題を指摘したい気持ちは分かりますし、それによってもたらされる意見はとても貴重です。組織や集団を代謝させてより良く発展させるためには意見をぜひとも取り入れるべきでしょう。

 意見を語ること自体を封じ込めたいわけではないのです。むしろ改善案はどんどん提起すべきです。ただ、悪し様に語るのはリスクが高いものであり、伝え方は重要だという話をしたいのです。

 

所属や接触に愛着を持つタイプもいる

 度合いは人によるのですが、所属に愛着を持つタイプの人は確実に存在します。

 正直なところ私もそのような愛着を持つタイプです。家族が好きですし、地元が好きですし、日本が好きです。会社は・・・まあほどほどです。

 理由は特にありません。そこに所属する人々や自然、環境に育まれてきたことに対するまったく根拠も理由も無い愛着を持っています。「だから親元で生活する」「だから地元で就職する」というほどの執着を持ってはいないのですが、少なくとも物事の優先順位は私が所属する集団に利するよう考えます。

 これとは別に接触に愛着を持つタイプも存在します。そのようなタイプの人は長く触れ合うことによって慣れ親しんだ人や物に対して強く愛着を感じます。これも度合いは人によって異なりますが、所属による愛着と比べれば多くの人が持つ属性と言えそうです。

 美的や機能、利得による愛着と比較して、これら2つは「あばたもえくぼ」になりやすいのが特徴です。

 まあ「なぜそれを愛するかを説明せよ」なんてそもそもが非論理の極致ではあります。人が何をどうして愛するかなんていうのはそれこそ人それぞれであり、ただその理由の一端に所属や接触が存在するという話です。

 

改革の抵抗勢力

 転勤者や異動者、つまりまだ身内となり切れていない人や接触機会の少ない人が自らの所属する組織・集団を大声で悪し様に吹聴する行為は、極論、所属や接触を愛着理由とする人からは敵対行為と取られかねないものです。

 そのようなタイプの人々は意見の内容や良否ではなく、その意見自体を愛するものを貶す敵対的なものだと受け取ります。これは善悪ではなく心理的な防衛反応であり止むを得ないものです。愛するものを否定されることは人間の持つ心理的な拒絶反応の中でも極めて強く感情に作用します。

 そのような防衛反応を引き起こしてしまうと、もはや和解や改革の推進は大変に困難なものとなります。

 所属や接触を理由とした愛着を悪いと言いたいわけではありません。ただこれらの愛着を持つ人々は物事の改革において極めて強固な抵抗勢力に発展し得るものであり、物事を変えたいのであれば決してその存在を軽視すべきではないということです。

 

アサーティブに、そして穏健に染み込ませる

 しかし貴重な改善意見が感情的抵抗によって受け入れられなくなるのはとても大きな損失です。

 必要なのは相手の感情を汲み取って、先に心理的な障害を取り除くことです。大声で悪し様に語るのではなく、親しみを持って接することです。回りくどく大変ではありますが、敵対したいわけではなく相手の愛着対象をより良くしたいのだということを伝えて理解してもらう必要があります。押し付けるのではなく、染み込ませるように行うべきです。そうすることで初めて意見の内容の精査に進めることが出来ます。

 

 強固に改善意見の利点や合理性を述べるのは逆効果です。どれだけそれが良い提案で優れていたとしても、抵抗勢力も同様に頑なになって反対するだけです。それでは改革が進まないどころか組織や集団が内部抗争によって疲弊するだけです。

 何よりも所属や接触を愛着理由にしている人々はその組織や集団を動かしている核心的な力の源泉です。そのような人々こそが組織や集団の屋台骨であり、土台と言えます。彼らは愛する所属や親しい身近な人々のために全力で活動しており、それによって現時点が回っていることを忘れてはいけません。

 彼らと敵対してしまったり協力を得られなければ、たとえ改革に成功したとしても組織が安定して運営するための多大なリソースを損ねることになるでしょう。

 

難しい話ではない

 難しそうな話になってしまいましたが、実際のところは単純な話です。相手が好きなものを大声で否定するような行為は敵対されても仕方がないということ、そして人が何を好きになるかは人それぞれだということです。誰かの好きなものをたとえ一部でも否定せざるを得ない場合はよくよく慮って相手の感情を考慮すべきだという、とても単純な話なのです。

 

 

余談

 ちょっとした愚痴。

 Twitter等の政治・経済クラスタでよく見かけるのですが、例えば「〇〇〇反対、賛成する奴は馬鹿」のような意見の表明は、本気で反対意見を広めたいのであればもう少し「相手の愛着」を汲んでもらいたいと思っています。これは賛成派の心理的な防衛機構を働かせてより強固な抵抗勢力に育てているようなものであり、本気で反対している人々からすればただの迷惑行為です。