忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

社会における教育や機会の格差に対する平等と合理性

 企業は営利団体である以上、多くの場合で合理的な意志決定を行います。

 例えばどのような企業であっても構成員に対する教育や機会には大なり小なりの格差が生じます。幹部候補の選別を筆頭に、与えられた教育や機会をモノにして成長し組織の利益に貢献する人材はより多くの教育と機会を得ますが、その反対に教育や機会を利益に転換できない人材には教育や機会が与えられなくなります。

 この傾向は企業に限らず公的機関の意思決定でも同様です。

 社会へ適切に利益を還元できない団体や事業には税や労力が支出されないよう批判の圧が生じるように、たとえ全体主義者でなくとも人々は自らが所属する集団が行う効率的で合理的な全体に資する意志決定を支持します。

 これらを不平等な統計的差別とするか効率的で合理的な区別だとするかは人によって異なる見解を持つでしょうが、現時点では後者での認識が一般的だと言えるでしょう。

 

 もちろん平等は重要なものですし、重視されるべきものです。

 ただそれが必ずしも錦の御旗になり得ないことは誰しも理解していることであり、時に公平性や公正性が優先されることは自然です。

 それこそ極端な話で「国家予算において分野ごとに歳出額が異なるのはおかしい、社会福祉予算と同じだけ防衛予算にも支払うことが平等だ」としてもそれに同意する人はまずほとんどいません。それは非効率かつ非合理で、公平でも公正でもないのですから。

 

費用対効果

 お金の話であればまだ話を掴みやすいのですが形の無いものとなると少し捉えにくくなるのが私たち人間です。教育と機会はその一例と言えます。

 

 先日、社内で「営業部の全員を対象として今以上に製品研修を行うべきだ」とした意見を耳にしました。

 製品研修を充実させること自体には個人的に同意ではありますが、組織論の視点からすれば実行すべきとは断定できないとも考えられます。

 教育の常として、その教育を受けた人々が同程度に伸びるわけではないからです。

 厳しい話ですが教育の費用対効果は人によって大きく変わります。学校で勉強してきたことを大人になって忘れてしまう人がいるように教育は必ずしも根付くとは限りません

 

 これを無機質な数字で表現すると、掛けたコストに対して出せる成果を係数とした場合、係数10のAさんと係数0.5のBさんのどちらに多くコストを掛けるべきかという話です。

 100の予算があってそれを平等に50:50で分配すれば525の成果を得られますが、100:0で分配すれば1000の成果を得られるならば、Aさんへ集中的に分配するほうが全体として合理的であることは否定できない事実です。負荷偏重の点でAさんは不満を覚えるかもしれませんし機会が無いことでBさんが嫉妬を感じるかもしれませんが、平等ではないものの全体の利得が増えるのであればAさんとBさんのどちらにも利益にもなり得ます。もちろんそれは最終的な利益再分配の平等性・公平性に依存するものではありますが。

 

 そもそも製品研修自体はすでに営業部全員が受けており、それでも製品理解に個々の差があるのは研修の質そのものよりも研修の理解度やその後の学習量に依存しています。

 このような合理性を考慮すれば、少なくともそのため今の時点で理解していない人にもっとコストを掛けた教育を施すことへの意思決定の是非は、その予算を別に分配した場合の費用対効果と比較して組織内で問われる必要があります。

 

平等と合理性

 これが日本の義務教育であれば平等性を優先することが正当化できます。

 下限のラインを設定してそこよりも下の子どもを出さないようにすることで全体を底上げし社会で高い治安や低い失業率を維持している代わりに、そのトレードオフとして上澄みの尖った才能が生育され難い環境を受け入れているのが平等を重視した日本の教育だと言えます。これは人によっては悪平等だと考えるでしょうが、少なくとも現時点ではそのような志向です。

 しかしながら実社会の企業・公的機関は社会の庇護下にある義務教育ではなく生存競争の環境下にあり、企業や公的機関は保有リソースを最大限に活かすことを優先せざるを得ない状況です。

 さらに言えば、平等を優先して525の成果を出す組織よりも合理性を優先して1000の成果を出す組織のほうが生存可能性が高く、またリソースの効率的な利用は低い環境負荷や製品の低コスト化と同義であり社会貢献度が高いとすら言えます。

 その点からすれば、必ずしも平等に問題があるとは述べないまでも少なくとも合理性によって意思決定を行うことの妥当性はあります。

 

結言

 合理性を重視する側の見解を述べてきましたが、私自身が自らの所属する組織から教育や機会を多く受け取っている側の人間なため、ある種のポジショントークに近いところがあります。そうでない人からはまた異なる見解もあるでしょう。

 冒頭でも述べたように平等も重視されるべき概念です。だからこそ平等と合理性は常に鎬を削ってバランスを取るべきだと考えます。

 

 

余談

 もう少し正直に言えば、私は全体の合理性に同意しているものの、負荷偏重の面から教育や機会を得られていることをそこまで喜ばしいとは思っていない側でもあります。

 もう少しまったりした仕事のやり方が好みですので、我儘で申し訳ないですが他の人に教育や機会を分配していただけますと幸甚です。