忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

過程と結果のどちらが重要か

「結果の出ない努力は努力じゃない」

「過程ではなく結果で評価すべき」

と日頃より述べている冷酷な成果主義者の私ではありますが、結果だけが全てであり過程はどうでもいいのかと言えば別にそういうわけでもありません。

 結果に辿り着くためには過程が存在するものであり、それを邪険にしては何事においても結果が出せるはずもないのですから、過程だって大切です。

 

結果を重視する理由

 私は公正を求めているために、評価の基準は結果に置くべきだと主張しています。

 過程や努力は人それぞれで、それを定量的に測定することはできません。定性的なものを評価するとなれば判定者の情や好悪といった時々によって変わる気分に依らざるを得ず、それはどうにも不公正だと感じてしまいます。

 それに対して結果は具体的に判定することができます。定量的であれば個人の好き嫌いが関与する余地はありません。もちろん個々人の能力には差があることから定量的な評価は不平等ですし、定量的とはいえ個人の成果を正しく判定することも難しく、情に欠けるところもあるでしょう。ただ、ある程度は公正です。

 

 結果を評価すべき理由にはもう一点、持続可能性があります。

 組織や集団の維持には成果が不可欠であり、成果をないがしろにして過程だけで評価してしまっては成果不足による崩壊に陥りかねません。嫌らしい現実ではありますが、「頑張っているけど売れない営業マン」よりも「頑張っていないけど売れる営業マン」を組織集団は評価しなければならないと考えます。

 

「だから結果だけが重要なんだ、過程や方法などどうでもよいのだ」

言いたいわけではありません。組織や集団における判定基準は結果に置くべきではありますが、自分が自分を評価する基準は過程であっても良いと思っています。

 つまり、自他双方の評価を得るためには結果と過程の双方を見る必要があると考えます。

 

個人と過程の付き合い方

 結果だけに傾倒すべきでない理由には「過程や方法を無視しては不正やコンプライアンス違反の温床になりかねない」という合理的な意味もありますが、それよりも何よりも、結果だけを見ていると楽しくないでしょう?

 個人的には過程における効力感を一切無視して自然体で結果にフォーカスする「やってない感」を推奨しているのですが、さすがにそれが万人向きだとは思ってはいません。

 やってない感とは”やってる感”の反対です。すなわち自身の行動に対して高揚感や達成感、効力感といった感情を抱かず、淡々と実行する感情を意味します。努力感は無く、物事へ立ち向かうことに気力を使わず、虚心坦懐、まっさらな心で物事へ相対する態度です。困難に立ち向かい乗り越えたという達成感を求めず、ただ為すべきことを為す、やるべきことだからやる、気持ちを入れて立ち向かうのではなく自然体で向き合う、そういった姿勢や感情の状態を"やってない感"とします。

 物事は継続することこそが重要です。そこに努力や努力感は必須ではなく、むしろわざわざ努力感を持つ必要はありません。別に辛くなくてもいいのです

 私は「やってない感」を楽しくやっていますがこのような習慣化を楽しめる人は恐らく一握りの変人だけで、大抵は自身の行動に達成感を覚えたり個々の所作に高揚感を持ちたいものでしょう。なにせその方が楽しいのですから。

 もちろん結果に繋がらない努力や効力感は戒められるべきだと信じますが、過程における楽しさはまったくもって無視できない、侮ってはいけない重要なファクターです。人は楽しければ成果が出るまで過程を継続できます。

 重要なのは結果を出すまでの辛さを排除することであり、それは「やってない感」でも「楽しさ」でもなんでも良いでしょう。

 

 そして何より、結果だけが全てだと考えてしまうと、結果が出なかった場合や失敗してしまった場合にそれまでの過程や努力、ひいては人格や個性まで否定されてしまったような感覚に陥ってしまいかねません。そのような自己効力感の低下を避けるためにも、自分で自分を評価する基準軸には過程を含めておいたほうが良いと考えます。

 当たり前のことではありますが、結果と個人は別々のものです。何かしらが失敗という結果を迎えたからといって、その人自身が失敗というわけでは決してありません。

 

結言

 結果と過程のどちらを重視すべきかは二元的に語られがちな問題ではありますが、私はどちらかが絶対的に正しいものだとは思わず、適用される場面によって異なるものだと考えます。