忘れん坊の外部記憶域

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努力に関する思索~努力を評価すべきか、どう評価するか

努力に関する厳しい話

 全力で頑張る。ガムシャラに頑張る。適度に頑張る。ほどほどに頑張る。頑張らない。物事に対してどのように努力するかは人それぞれ自由であり、誰かが強制すべきものではありません。

 それは何故かというと、努力は結果ではなく経過であり、本質的な評価の対象とはならないものだからです。とても厳しく冷たい話ではありますが、少なくとも集団における評価は努力の有無ではなく、辿り着くべきところに到達したかの結果こそがまず問われます。

 例えば何らかの試験があって、評価の対象となるのは合否の結果のみです。努力の有無は本質的な評価とは無関係であり、合格するという結果を出して初めてどれだけ努力したかという物語を装飾することが可能になります。

 物凄く頑張ったけど上手くいかなかった、というような結果に届かなかった努力は残念ながら語る権利を得られません。書店に並ぶ本を眺めても分かるように『どれだけ努力したか』を語る権利を持っているのは結果を出した成功者のみということです。『どれだけ努力したか』という華やかな話は甲子園のようなものであり、まずもって何よりも『結果を出す』という地区予選を突破する必要があります。

 これは努力を否定しているわけではありません。結果を出すためには努力が不可欠であることは多々あり、努力そのものは尊く立派なものです。

 しかし努力を集団の評価基準に加えてしまうことは避けたほうが良いのです。頑張ること自体が目的化してしまうと無意味な長時間労働や残業の強制、非効率的な業務の継続や無思慮な前動続行といった行為であっても辛いことに耐えて頑張っていると評価されることになってしまいます。そうなっては結果に繋がらない無意味な努力まで評価されてしまい、個人や組織の弱体化を招きます。

 営業を例にすれば、適当に仕事をしているけど商品を売ってくる営業マンよりも物凄く頑張ったけど売れなかった営業マンを人情的には評価してあげたいところですが、それをしてしまうと売上が立たずに会社が潰れます。よって人情はぐっと抑えて売れる営業マンを評価してあげなければいけません。もちろん売れない営業マンを比較するのであれば頑張っているほうを評価することは妥当ですが、努力の量は結果を超えないということです。

 さらに言えば、1時間で終わる仕事を引き延ばして50時間掛けたほうが長時間頑張っていると高く評価されるような評価基準は、なんともおかしいでしょう?

 他者へ努力の強要をするということはその努力を評価基準にするという意味であり、それは集団にとって望ましい結果をもたらすことはありません。

 

 小さな子どもの場合は少し異なり、子どもの教育における目的は努力できる姿勢を育むことが含まれます。よって子どもにおいては努力する行為そのものが結果であり、適切な評価対象となります。また個人の目的に対する評価も同様に別です。ただ、少なくとも集団における大人の評価では努力という項目は優先されるものではありません。

 

結果の評価と努力の評価の違い

 努力の評価を完全に排除できるかと言えばもちろんそれは現実的ではありません。小さな子どもの努力は何らかの基準を持って評価すべきですし、結果が出ていない者同士を比較するのであれば人情として努力している方を評価してあげたいものです。しかし結果と努力は同じ評価基準を用いるべきではないことに注意しなければなりません。

 結果の評価は容易です。多くの目標は定量化されているものであり、その大小や到達を数値で判定することができます。それに対して努力の評価は曖昧なところがあります。誰がどれだけ頑張ったかを定量的に評価するのは難しいものです。

 努力を評価する必要がある場合は、他者との比較ではなく個人の変化率によって評価することが適切だと考えます。これもまた曖昧ではありますが、他者という物差しよりはマシです。つまり誰それと比べて何時間努力したかというような基準ではなく、今までよりもどれくらいできるようになったかということです。

 「あの子は1時間で30問の問題を解いたというのにこの子はそれよりも解けていない」、「あの子は50mを何秒で走れるのにこの子はそれよりも遅い」というように、他者との比較は同時間軸の事象で比較容易なためつい行ってしまいがちです。

 しかし能力やリソースは人によって異なります。足を怪我している子どもに対して「他の子は走れるのに走れないのは努力不足だ」と言うのは意味が無いどころかひどい仕打ちです。比較すべきは他者ではなく本人の過去であり、昨日よりも長く勉強することができた、50m走で以前よりもタイムが短くなった、というような正の変化があればそれこそを努力として評価すべきです。

 

まとめ

 組織における評価は努力の量ではなく結果に対して行う必要があります。しかしそれは努力が不要ということを意味しているわけではありません。努力に対して少し厳しい話をしましたが、結果を求めるのであれば努力はほぼ不可欠なものです。

 また子どもの教育や個人での活動において努力を評価すべき時も存在します。その場合は他者との比較ではなく過去との比較によって行う事が適切です。