忘れん坊の外部記憶域

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もっと生産性を上げるために頑張ろう、への違和感

 商売やビジネスにおいて、昨今はどこでも生産性について語られています。もっと頑張って生産性を上げなければ競争に勝てない、もっと努力して生産性を今以上に高くしなければならない、というような調子です。

 生産性を上げること自体が目的化してしまったり、マクロ経済で無理な生産性を求めることが無いのであれば、つまり一企業や一職場のミクロな範囲で生産性を上げることには特に異論はありません。まったく独立的に存在し得る市場というのはほとんどなく、大抵の商売やビジネスには概ね競合が存在し、ユーザーの財布の中身は有限であり、利益を出すためにはまず競争に勝たなければいけないという市場がほとんどだからです。生産性の高さは競走に勝つためには不可欠なものです。

 ただ、『もっと頑張って』『もっと努力して』生産性を上げる、という言葉はどうにも違和感というか、ズレを感じています。

 

『もっと頑張る』『もっと努力する』という方向性は足し算

 もっと頑張りましょう、もっと努力しましょう、という言葉の背景には、ある労働価値観が存在するように感じます。それは「たくさん働くことが善」という、労働時間に価値基準を持っている思想です。長時間労働も何のその、多く働いて多く結果を出すことが善であり、今以上に、今の状態にプラスして行動するべきだ、それこそが生産性を上げるのだ、という足し算の考えが背景にあるからこそ「もっと」という副詞が頭に付いているように感じます。

 しかし、今以上に頑張れば生産性は上がるでしょうか?

 生産性は何を測定するかで様々な定義がありますが、総じて言えば【出力/入力】で計算されるものであり、投入した資源に対してどれだけの成果を出せたかを表す言葉です。

 確かに今以上に、今の状態にプラスして行動すれば出力の量は増えるでしょう。しかしそのためにはプラスの頑張り分・努力分の入力が必要になります。そうなると生産性の計算上、生産性はほとんど変わらなくなります。労働時間に価値基準を置いてしまうと生産性向上には繋がりにくいのです。

 

『いかに頑張らないか』『どれだけ努力しないか』という引き算こそが必要

 人間が行動できる時間には制約がある以上、10倍の出力を出すために5倍の時間働く、というような足し算の方向性での生産性向上は現実的ではありません。生産性を上げるにはむしろ逆、出力を増やすのではなく、入力を減らせばいいという引き算の発想が必要です

 今まで通りの出力を維持しつつ、如何に手を抜いて短時間で終わらせるか、不要な手順を削って楽をするか、余計な仕事を増やさないか、無駄な仕事を無くすか、人の手を使わないで自動化するか、という頑張らない方向への改革こそが生産性の向上に繋がります。

 これは労働時間に価値基準を置く人からすれば言語道断な発想だとは思います。しかし生産性を本当に上げたいのであれば、労働時間ではなく労働成果に価値基準を置き換えなければなりません。頑張って努力して長い時間を掛けて必死に練り上げた成果よりも、片手間に鼻歌交じりであっという間にこしらえた成果のほうが価値がある、ということを認めなければ生産性を向上させることはできないのです。

 よって自社や自組織の生産性を上げたいのであれば、『もっと頑張って』『もっと努力して』と発破をかけるのではなく、出力を落とさない範囲で『もっと頑張らないで』『もっと努力しないで』『もっと楽をして』『もっと手を抜いて』と求めましょう。

 

労働時間に価値を見出す思想からの脱却は難しい

 労働時間に価値を置く思想(マルクス主義的思想)からの脱却はなかなかに難しいものです。なにせ頑張ってたくさん働く労働者の多くはとても真面目で熱心な努力家であり、それを善と規定することはむしろ普通のことだからです。

 こればかりは一朝一夕での解決策はなく、徐々に組織の意識が変わっていくのを待つしかありません。それが難しい場合は世代交代による変化を待つしかないでしょう。伊達に世界を二分する思想対立を生み出したわけではなく、この思想はとても強固であり、無理に変えることは難しいものです。

 

 

余談

 「生産性を向上させるために新しい手順を増やします」というような面白矛盾発言を先日聞いてしまったので・・・もー、余計な仕事増やすなってー。