ちょっと無理筋なことを言ってみる。
濃淡・強度の違い
昨今、陰謀論が時々ネットやニュースで報道されることもあり、つい陰謀論を信じる人に対して否定的な感情を抱いてしまう人も多いかと思います。
程度の問題もあるでしょうが、それこそ爬虫類人が世界を陰から支配しているとか、月面着陸は嘘だったとか、そういったいわゆるトンデモ系の陰謀論に触れたときには理性と感情の両面が反射的に拒絶反応を起こすのもやむを得ません。その気持ちはよく分かります。
ただ、よくよく考えてみると、陰謀論に僅かばかりも染まっていない人など本当に存在するのでしょうか?
極論すれば、誰もが何らかの”ちょっとした陰謀論”をうっすらと信じているかと思います。
例えば、メディアについての見方ひとつ取っても、
「メディアは左派や海外勢力に支配されている」と考える人もいれば、
「メディアは右派や政府に都合よく動いている」と考える人もいます。
どちらもネットで時々見かける意見です。
これらは両立するわけもありませんし、どちらも明確な証拠があるわけではありませんので一種の陰謀論と言えます。過去に個別の事例があるかもしれませんが、今もそうであるかどうか、そして全体がそうであるかは別問題です。
一部の事例や印象から引き起こされた直感的な判断(ヒューリスティック)に従ってこのような「それっぽい話」を信じてしまう人はどこにでもいます。
よくネットで見かけるような話をいくつか拾ってみましょう。
例えば右派的な人は時々こういったことを言います。
「グローバリストやエリート層が世界を操っている」
「教育現場は左派思想に染まっている」
「移民政策は国家主権を破壊するための戦略だ」
一方、左派的な人は時々こういったことを言います。
「政府は国民を監視したがっている」
「軍産複合体が戦争を煽っている」
「大企業は健康被害や環境汚染を隠している」
これらはどれも「意図的な操作」「隠蔽」「支配」といった要素を持つ、陰謀論的な構造を持った物語です。そして多くの場合、根拠があるようで具体的な根拠はありません。過去の事例があることと、現在そうであることは論理的に別だからです。また、少なくとも一部がそうであっても全体がそうであるとは限らない以上、これらの物語は陰謀論的です。
報道・食料・エネルギー・医療・芸能・教育などなど、様々な分野でうっすらと信じられている”ちょっとした陰謀論”はそれこそ枚挙に暇がないでしょう。
解決すべきポイント
ありとあらゆる物事に対して疑問を持つことは個人の持つリソースでは不可能であり、誰もがヒューリスティックに頼って生きていかざるを得ない以上、それっぽいナラティブを持った”ちょっとした陰謀論”を避け切ることはできません。
だからこそ、陰謀論に染まっている人を責めたところであまり意味はないでしょう。誰もが陰謀論に染まる素質を持っており、その濃淡や強度に違いがあるだけだからです。
つまるところ、陰謀論が問題になるのは陰謀論そのものではありません。その信念が他人に迷惑をかけたり苦しみを与える場合が問題です。
事象と問題はイコールではなく、陰謀論に染まることはただの事象です。それ自体は問題ではなく、そこから引き起こされることが問題となります。
例えば身内が陰謀論に染まってSNSに傾倒していたりあまつさえ他者に暴言を吐いたりしていたとすれば、<陰謀論に染まっていること>が事象で、<人間関係や日常生活に問題を来たすこと>が問題です。
そういった場合、まあ一番いいのは距離を置くことではありますが、そうもいかない場合、「その意見は間違っている」と論破しようとすることは効果的ではありません。それが受け入れられなければ問題である<人間関係や日常生活に問題を来たすこと>が悪化する可能性もありますし、別の陰謀論や怪しい宗教に染まって問題が継続する可能性もあります。
重要なのは事象ではなく問題の解決であり、それこそ「SNSばかりに熱中されると家族で話す時間が減って寂しい」「不安になるから別の話をしたい」といった、問題となっている苦しみや摩擦、感情や困りごとを伝えたほうが効果的です。
結言
陰謀論とは誰もが持つ人間の自然な認知機能が「不安や不信」を「物語に変換する」ことで「複雑な現実に意味を与えようとしている」だけであり、ほとんどの人が何らかのちょっとした陰謀論をうっすら信じているものです。
よって陰謀論それ自体の真偽や賢愚は重要ではなく、陰謀論が人間関係や日常生活に問題を来たしているかが問題であり、その解消に注力することが重要かと思います。