むやみやたらに射程を広げていく。
思い出から広げる風呂敷
私の母はガチャガチャやカードゲームに対して否定的な人だった。
「そんなオモチャ、そんな紙に何の価値があるのか」
今の私は当時の母と同じ感想を持つ。あれらはただの「プラスチック」や「紙」であり、私にとって価値が無い。価値が無いと思うものにお金を払うのはムダだとする、当時の母が感じた気持ちが今は分かる。
しかし、よくよく考えてみれば「それらに価値を感じない私」は母によって構築された価値観であり、予言の自己成就じみたことになってはいないだろうか。
当時の私がそれらを欲しがっていた時は、そういったオモチャに「物語性」なり「希少性」なり「交換可能性」なり、何らかの価値を感じていたから欲しがっていたことは疑いようがない。
それらに価値を感じないよう育てられたからこうなっただけで、「価値を感じるままの私」が保持されていれば、今の私はそれらに価値を感じることができたのかもしれない。
そうありたかったわけではないが、疑問だ。
人が何に価値を持つかはそれぞれ異なるものである。
そして個人の持つ世界観や人生観、主義や信条は思想・良心の自由として尊重されるべきものであり、他者からの侵害が許容されない確固たる人権である。
その思想・良心の自由を親が子どもに強制することは親の教育権として妥当か、或いは子どもの人格権が優越するとして認識されるべきか。児童の文化的・宗教的教化はどこまで許容されるのか、洗脳と教育の線引きはどこにあるのか。
進化論と宗教教育の対立を筆頭に、昔から海外でも議論されており、昨今でも日本では宗教二世問題として世論で取り上げられることもあるこの教育権と人格権の対立。
しかし、そもそも宗教の枠組みで考える必要はないのではなかろうか。
ガチャガチャ一つ取っても、それに価値を見出すか否かの価値基準を子どもに強制することは許容されるものだろうか。
もちろん現時点での答えは明白だ。
親は自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する権利を持つことが条約等で明記されている。常にそれが優越するわけではないが、未成熟な子どもが自己の人格権を主張して親の権利と対立することは現実的ではないだろうし、子どもの倫理観が親に勝ることは滅多にない以上、親が適切な教育を施す義務すらある。
親の権利を濫用したカルト化や信仰強制といった問題があることはすでに周知ではある。
しかしそれでも、安易に親の権利を否定しては国家や共同体など強力な集団からの洗脳が生じるリスクがあり、或いは少数文化や少数宗教を撲滅することにさえ繋がりかねない。
現時点で最も多様性を維持したまま被害を最小化できる方法が親の権利に委ねることであり、親の権利が優越することは自明である。
要するに、優越である。
絶対で不可侵の権利ではない以上、線引きを行えばいいだけであり、子どもの発育や将来へどの程度影響を与えるかを都度都度吟味し、社会的な議論を持って適宜妥当性の確認を行っていけばよいだろう。
すなわち、子どもの権利について度々議論が生じることはむしろ良いことだと言える。
結言
先日、商業施設でガチャガチャを見かけた時に思い付いたことを書いてみました。
特に意味はない割に、話の射程が広いです。