海外から宗教的な理由に基づく厳格なヴィーガンの来客が来る度、営業担当者が食事のセッティングで毎度大変そうにしているのを見かけます。相手の好む食事を用意することも接待の一環ですのでこちら側があれこれ配慮することは否定しませんが、相手方がその配慮を受け入れている点は気になるところです。
個人的な見解として、少し厳しいですが「そういったことは自前でなんとかすべき」と思っています。私だって海外へ行った時に「私は日本食しか食べない、なんとかしてジャポニカ米を用意しろ」とは求めません。同じように、郷に入っては郷に従うか、せめて自身の信仰や信念は自身の努力で貫き通すべきだと思っています。
強者の慈悲的差別
こちらの食文化を否定されてもこちらは相手の食文化を受け入れなければならないことを正当化する理由は寛容の言葉で説明されます。
寛容とは自身が好まない、あるいは同意できない行動や考え、物や人物を許容することです。昨今強く提唱されているDEIの根底にある概念であり、多様な違いを尊重して共存するためには異なる点を寛容に受け入れることが必要とされます。
ただ、それは穿った見方をすれば一方通行です。ヴィーガンの食文化を拒絶することは不寛容の範疇ですが、ヴィーガンが日本人の食文化を拒絶することは許容されます。
或いは少数民族や少数派に対して「多数派の考えを寛容に受け入れろ」とすることは寛容の精神とはされないでしょう。それはただの強要です。
子どもの突進を受け入れる親の態度は寛容であり、喧嘩でボコボコに殴られている側が「寛容に受け入れよう」と語ったとしてもそれは寛容ではなくただの強がりとなります。
要するに寛容とは本質的にパワーバランスの概念が内包されており、強い側が弱い側を認める行為に他ならず、対等な関係ではないことが前提です。
それは例えば次のような表現からも読み取ることができます。
Toleration, according to Isaiah Berlin (1969, p. 184), “implies a certain disrespect. I tolerate your absurd beliefs and your foolish acts, though I know them to be absurd and foolish”.
アイザイア・バーリンによれば、「寛容とは、ある種の軽蔑を含意している。私はあなたのばかげた信念や愚かな行為を寛容するが、それらがばかげていて愚かであることは分かっているのだ」。
12 - The ethics of controversy
Published online by Cambridge University Press: 05 June 2012
つまるところ寛容とは、良く言えば憐憫に基づく慈悲であり、悪く言えば教養で覆い隠された軽蔑です。率直なところ善意に基づいた慈悲的差別に属すると言えるでしょう。相手を蔑みながらもそれを受け入れる自らの度量に対するナルシズムでもあり、人々が称揚すべき概念かは、なんとも判断が難しいところです。
結言
もちろん私は多様な違いを尊重して共存することを否定するつもりはありません。多様性は実に重要であり、人はそれぞれ尊厳を持って生きる権利があると信じます。
ただ、そのために用いる手段としての寛容は、実のところ寛容を受ける側の尊厳を本当に尊重していると言えるのか、その点については疑問です。本当に相手を対等な存在だと考えているのであれば甘やかして保護するような寛容ではなく同等と認めた要求をしても良いのではないかと考えています。
冒頭の事例で言えば、
「ここは日本だ、黙って肉や魚を食え」と否定するのではなく、
「分かりました、貴方に合わせた食事を全て準備しましょう」と世話を焼くのでもなく、
「そうか、君の信仰は否定しないが食事は自分で考えてくれ」と適度な距離を保つ、それこそが他者を対等に尊重した上での寛容さではないでしょうか。