最近『論座』や『Books&Apps』でアフリカの汚職に関する話を見かけました。
汚職と経済低迷に苦しむ南アフリカの夜はいつ明ける - 花田吉隆|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
日本のスタートアップがアフリカの犯罪者を追い詰めたら、汚職警官に銃で襲撃された。 | Books&Apps
私もちょうど腐敗認識指数(CPI)の記事を作成する際に汚職について調べていましたので、その際に見かけたアフリカの汚職事例を紹介してみます。
モザンビーク(腐敗認識指数147/180位)の事例
モザンビークの隠された債務スキャンダルのコストと結果
記事によれば、2013年にモザンビークの上級政治家と公務員が他国の銀行家やビジネスマンと共謀して、モザンビークのために計画された20億米ドルの融資を全て懐に入れました。これは同国GDPの12%にあたる巨額の融資でした。賄賂で使われたお金を除き、この融資のお金はモザンビークの人々にまったく使われていません。
この大規模な汚職スキャンダルの波及効果によって、モザンビークは少なくとも110億米ドルを失った可能性があります。これは2016年の同国GDPとほぼ同額です。それにより200万人近くが貧困に追いやられており、さらにはこのスキャンダルによる債務の返済を余儀なくされた場合、将来の悪影響に加えて新たに40億米ドルの支払いが発生します。
規模のイメージを分かりやすくするため、日本でこのような規模の汚職があったとしてみましょう。単純な比率での比較で、日本のGDPを約500兆円として計算してみます。もちろん単純に比率で見ることには意味が無いのですが、規模感を掴むことが目的です。
まず政治家や公務員が懐に入れた汚職の額は、GDPの12%として約66兆円です。日本の一般会計がおよそ100兆円ですので、国家の年度予算を半分程度掠め取ったような規模だということが分かります。
次に汚職の影響による損失がGDPと同額ということは、単純に日本で言えば約500兆円の損失です。日本が現在発行している国債額が約1000兆円ですので、それが一挙に1.5倍へ膨れ上がるような規模の額です。
モザンビークの人口は約3100万人であり、そのうちの200万人となれば6.4%です。日本で言えば800万人が汚職の影響によって貧困に陥ったようなものです。800万人がどの程度の規模かと言えば、愛知県や埼玉県の人口くらいです。
この状態からさらに汚職額の2倍のペナルティが出るのですから、プラスで約132兆円の支払いが必要です。これは一般会計の予算を超えています。
つまりこのモザンビークでの汚職スキャンダルは国家が破綻しかねない規模の汚職だったことが分かります。
アフリカの汚職は規模が違うとは聞いていましたが、さすがに驚きです。
汚職の是非について
私たちの価値観からすれば汚職は不道徳でバッド(Bad)な行為です。地位や職権を私的利益のために濫用することは忌むべき行い、批難されて然るべき行為とされます。
しかしながら、汚職を文化的な側面から見ると少し様相が変化します。汚職とは公(パブリック)の権限を私(プライベート)で用いることですが、公私の区分が文化圏によって異なるためです。
例えば、日本や欧米において家族や親族はプライベートの範囲です。そのため地位によって得られた利得を家族へ誘導したり裁量権を活用して親族を特権的地位に付ける行為は権限の濫用であり汚職だと見なされます。
しかしアフリカでは家族や親族の範囲をパブリックだと認識していると社会学者は報告しています。それは西洋的な「市民的公共圏」の他に「原初的な公共圏」が残っているためです。
日本や欧米のような社会規模の価値観ではもう薄れて消え去った見方ですが、確かに家族や一族で構成される原初的な村社会、そこで暮らす構成員にとってその社会はまさしくパブリックなものです。そしてその集団に利益をもたらす行為は極めてパブリックで”バッドではない”行為となります。そういった価値基準が未だ残るアフリカでは、伝統的な公共圏と急速に導入された市民的公共圏が二重に存在している複雑な状態になっています。
つまり、アフリカにおいて家族や親族に利益をもたらすことはパブリックな行為の側面を持っており、汚職である認識が薄いのです。
この原初的な価値観を打ち壊し、彼らの文化を破壊することが許されるのか。エスノセントリズム的な横暴や傲慢になりはしないか。
私たちの価値観では明確に不道徳でバットな行為である汚職一つ取っても、その是非を安易に判定することは難しいものだと感じます。
多様性と住み分け
とはいえ、「アフリカで何かをする場合は汚職を許容しろ」と言いたいわけでもありません。それが彼らの文化であっても、私たちがそれを受け入れる必要は無いからです。多様性とは異なる価値観が存在することを理解し認める寛容であって、相手の価値観を全て受け入れてこちら側が変容することではありません。
つまるところ、私たちがアフリカのような汚職文化と相対する際は、
「汚職が存在することは分かった、だが我々としてはそれを許容することはないため、私たちと取引をするのであれば汚職をしないでもらいたい。汚職をする人とは取引しない」
という態度を取り、住み分けることが現実的だと考えます。
私たちが汚職の撲滅を押し付けるのではなく、彼らが汚職の是非を選択する。
そのような姿勢が寛容であり、互いの尊重に繋がると考えます。
これは他の文化的軋轢に対しても同様に考えています。私たちの価値観では到底許容できない文化に対して、その撲滅を働きかけるのは文化的な侵略になりかねません。
しかしその許容できない文化を受け入れる必要もないため、こちらの文化に賛同したりその文化から逃げ出したい人には扉を開いて招き入れ、拒絶する人とは別の道を歩む。そういった姿勢を私は好みます。