忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人種と民族の違いから民族自決権の意味を考える

 ふと思ったことをまとめていきます。

 本日のテーマは『民族自決』です。

 

 ・・・重いテーマだこと。

 

翻訳の難しい言葉

 民族自決は存外に難しい、字面通りには捉え難い概念です。

 そのまま読めば「各民族」が「自己決定」を行うことを是とする言葉なのですが、そもそも「民族」や「自己決定」の範囲が不明瞭です。

 

 まず、民族自決権は国際社会の基本原則の一つであり、国連憲章にも記述されています。また民族自決権は人権(Human rights)の一つでもあり、英語ではSelf-determination(自己決定権)となります。

 ここがややこしいところで、英語のSelf-determinationには”民族”の表記がありません

 その点について考えてみましょう。

 

 日本語の「民族」は慣習的に「人種」と近い取り扱われ方をされることがあります。例えば文化的特徴の違いについても「○○人」のような表記がされるように、日本語の「人種」はコーカソイドやモンゴロイドなど身体的特徴の差異を示す意味の他に、地位や職業、環境や生活習慣などの違いでも用いられます。

 それは長らくモンゴロイドのみで文化を形成してきた極東の島国たる日本では「民族」と「人種」を峻別する必要が無かったためでしょう。

 しかし「民族」の正確な定義は「同じ文化を共有し、生活様態を一にする人間集団」であり、厳密に言えば身体的特徴の差異を表す「人種」とは似て非なる概念です

 対して英語では身体的特徴の差異はRace、文化的特徴の差異はEthnicと別々の言葉で区分されています。そして”民族”は文化的特徴の差異であるEthnicに相当する言葉です。

 

 自己決定権(Self-determination)とは人々が独自の政治的実体を形成する権利、すなわち完全な選挙権を持つ代表政府を構築する権利を指します

 この言葉にあえて”民族”を当てはめて翻訳されているのは、正確な意味での「民族」すなわち「同じ文化を共有し、生活様態を一にする人間集団」には独自の政府、独自の政治的決定権を持つことが許されるのだと明確にするためだと考えられます。

 

 つまり、日本語の「民族」は含意が広くて分かりにくいですが、民族自決は身体的特徴の差異である「人種」とは関係のない概念です

 

「人種(Race)」と「民族(Ethnic)」の明確な区分

 そろそろ日本語でも「人種(Race)」と「民族(Ethnic)」の区分を明確にしたほうがいいような気がします。

 例えば海外をルーツに持ち日本で生まれ育ったコーカソイドやネグロイドは、「日本人かどうか」と曖昧な言葉で考えるから「人種」と「民族」が混同してしまうのであって、文化や生活様式を共有していれば同じ日本"民族"です。代表的な日本人のモンゴロイドとは人種の面で異なるかもしれませんが、同じ民族なのですから排他的になる必要はまったくありません。

 逆向きも同様に、日本に住む琉球民族やアイヌ民族などの文化的特徴はたとえ同じ日本人(モンゴロイド)であろうとも異なる民族集団として尊重されなければなりません。「同じ日本人だから」は優しい言葉のように見えて「人種」と「民族」を混同したリスキーな表現だと言えます。

 中国と台湾の関係も一つの事例と言えます。中国と台湾は同じ人種ではありますが、同じ民族かと言えば人によって答えは異なるでしょう。よって民族自決権の行使、すなわち台湾を併合する権利が中国にあるかどうかは議論の余地があります。

 

結言

 民族の範囲はどうしても曖昧にならざるを得ないため、「あそこのグループは我々と同じ民族であるから併合してもよい」といったように民族自決権が悪用される事件は過去の歴史でも度々生じてきました。

 とはいえ、たとえ悪用できるとしても原理原則として人々の自己決定権の尊重を是とすることには意味がありますし、それを非とすることのほうが弊害は大きいでしょう。民族自決権が認められなければ少数民族の自立・尊重を果たすことができないのですから。

 

 なんにせよ「人種(Race)」と「民族(Ethnic)」の違いを明確に認識して適切に民族自決(Self-determination)の概念を取り扱う必要があると考えます。

 

 

余談

 RaceとEthnicが明確に区分され過ぎているとそれはそれで問題があると思ったりもします。

 欧米は人種差別(Racism)には相当に敏感ですが、Ethnicへの差別については少し鈍感なところがあり、文化的差異への軽視があるように見受けられます。

 顕著な例で言えば言語で、外国人が日本に来て英語やフランス語が通じないと揉めることが稀にあります。対して日本人が海外で日本語が通じなかったとしても相手のEthnicへ配慮してまず揉めることはないでしょう。

 日本語ではRaceとEthnicが混在しているからこそ、それらへの差別は全体として許容されない規範になっている、それはある種の良さなのかもしれません。

 

 もちろん欧米だって文化の盗用(Cultural appropriation)のようにEthnicへの配慮が徐々に進んできていることも付け加えておきましょう。