タブー(Taboo)とは、社会的・文化的・道徳的に触れたり口に出してはいけないと禁止されている物や事柄を指します。
日本語での訳語は禁忌とされますが、禁忌は科学的や技術的にすべきでないことも含まれるためニュアンスの差異が若干あります。タブーはそういった科学的根拠を必要としません。
タブーと同調圧力
タブーは人々の行動のありようを規制するものですが、どこかにそのルールが明記されているわけではなく、社会的・文化的・道徳的に自然発生する規制で、これは同調圧力の一種と言えます。
タブーの内訳は社会集団によって大きく異なるため、場合によっては言語の差異と同程度、むしろそれ以上に異文化コミュニケーションの障害となり得ます。
例を挙げていくとキリがないのですが、マスクを付けることはコミュニケーションの拒絶だと否定的な捉え方をするような地域もあれば、女性が肌を晒すのは望ましくないと拒絶する地域もあります。嘘をついてでも相手に返答することが誠実さだとする地域もあれば、男同士で手をつなぐことが仲の良さを表すバロメータである地域もあります。
何をタブーとして何を良しとするかはそれぞれの社会集団が暗黙の了解として保有する相対的な基準であり、ある種の敷居とも言えます。こうしろとは明言しないがこうしないと同じ社会集団の仲間とは認めない、というハードルです。
社会集団からのこのような無言の強制は排他的でとても窮屈なものですが、しかし社会集団とは共通の同質性を保有するものが集まってできるものです。まったく異なる人々では社会集団を形成する意味がなく、何らかの幻想を共有することが必須となります。その最大のものが国家や民族であり、最小のものが家族や友人です。タブーはその共通幻想の一つです。
つまりタブーは煩わしいものには間違いありませんが、それが社会集団の紐帯を維持しているという正の面もあるため、単純な断罪は難しくあります。
可変であることの面倒さ
タブーには科学的根拠を必要としないことから、その規制範囲は社会情勢によって日々変化することになります。
そのため記録が容易になった現代社会ではかつてよりもタブーの取り扱いが難しくなっています。社会情勢によってタブーの範囲は不定期に変化することから、当時は問題なかったとされていたことが現代では許されないという変化も当然起こるわけで、現代は過去の記録を遡って遡及的な断罪をする行為が容易になっているからです。
うかつな発言が後々に社会的な断罪を受けるのは多少自業自得というものですが、タブーの変化によって断罪されるのは回避が難しく、それを避けるためにはグレーゾーンにありそうなテーマを最初から遠ざけておく以外にはありません。
現代のブログはタブーに触れやすい?
保身という観点からすればタブーにはそもそも触れないのが理想的です。
とはいえ誰も触れなければその同調圧力は窮屈なままであり、必要に応じてタブーの改変活動は行われたほうが良いと考えます。よってタブーには消極的でも嫌々ながらでも多少触れた方がよいでしょう。
統計データに基づかない個人的な見解ですが、演劇や舞台はタブーに触れやすい発表形式だと考えています。
文化人は時代の知性を代表するものであり、知性たるもの大衆や権力に阿らないことを良しとする風潮があります。歌舞伎や狂言が従来より反体制的な側面を持ち合わせていたように、今でも芸術の分野ではタブーに挑戦する人々が多数居ます。
その中でも演劇や舞台は記録に残されにくいという点でタブーに触れやすいと言えるでしょう。実際、演劇は反体制活動の情報発信に用いられてきた歴史を持っています。
さすがに映像技術が発展した現代では完全な隠蔽は現実的ではありませんが、それでもテレビやラジオといったマスメディアとは異なり選択的な発信が可能なため、衆目に晒されてタブーの地雷を踏むリスクは低いと言えます。
類似の理由で、現代のブログもタブーに触れやすいメディアだと思っています。
・・・こう、言ってはなんですが、現代は動画配信やSNSが主流メディアなわけで、ブログは全盛期の頃よりも拡散力が弱いと思うのです。衆目に晒されないことがタブーに触れ得る条件である以上、その点で現代のブログは条件を満たしているわけで。むしろインターネット上でタブーに触れるようなコンテンツを発信するのであれば、動画配信やSNSよりもブログのほうが優位ではないかと考えます。
結言
この駄ブログではタブーに触れるようなテーマを時々取り扱います。もちろん細心の注意を払って人様を不快にしないよう努力する所存ではありますが、とはいえ踏み誤ってグレーゾーンを超えていたらご指摘いただけますと幸甚です。