忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

過去を用いて批判するのではなく、前向きな提案を

 旧態依然としたものを批判して現代の価値基準に更新を図ることは必要です。伝統にはそれ自体に価値がありますが、それは変わらなくてもいいことの根拠足り得ません。

 コンピュータと同様、必要な部分にパッチを当ててアップデートをしていくことは間違いなく有益であり、批判と更新自体は何ら問題がないどころか推奨されて然るべきです。

 

 ただ、個人的な見解ではありますが、過去を現代の価値観で断罪することは少しズルいのはないかと考えています。それよりは前向きな提案のほうが好みです。

 

先天的なもので批判することの構造的問題

 個別事例について取り上げたいわけではないので少し気が引けますが、例えば男性優位である現社会の構造や当時の暴力的な文化への批判、他にも分かりやすい事例で言えばアメリカで一時期興隆していたブラックライブズマター運動での奴隷制批判などを代表例として、過去に一般的であったことが現代の価値観には合わない場合に、過去を用いて現代の人々を批判することはあまり適切ではありません。嫌な例示をすれば、過去に黒人を奴隷にしていたことを理由に現代の白人を責めるような仕草は、適切ではないと考えます。

 何故ならば過去は変えようがないものであり、先天的に保有しているものと同じだからです。

 

 生まれや人種、容姿や世代など個人の努力ではどうにもならない先天的な特性をもって人を攻撃する行為は差別と呼ばれます。

 そして変えようのない過去の事例を持ち出して現在の人々を攻撃する行為は差別と極めて類似していると言えるでしょう。

 しかし差別的な構造を批判するために差別の論理を用いては差別の再生産にしかなりません。それは社会問題の解決に資することはなく、むしろ分断を深める一方となってしまいます。酷い場合は悪い意味での”歴史修正主義”を蔓延らせることにもつながるでしょう。

 それこそ例えば過去に黒人を奴隷としていたからといって現代の白人を責めたとしても、現代の人々からすればそれはどうにもならないことです。自身の意志によって行った後天的な行為ではなく先天的で変えようがない属性を責められれば反発心が沸くのは必然であり、それは社会の分断を進める結果をもたらします。人種に限らず、「お前は男(女)だから悪い」「貴方は老いている(若い)から駄目だ」といった形式も同様です。

 

 このような先天的特性に対する攻撃、原罪と断罪の構造は人種問題に限らず他の様々な事例でも残念ながら散見されますが、「差別を解消するための差別」は個人的に「戦争を終わらせるための戦争」と同程度に有害なものだと考えています。

 

問題解決の道標

 社会問題の解決を提唱するのであれば、差別の再生産とならない新しい論理構造が必要です。

 それは「過去にこのような問題があったのでお前たちは駄目だ」と特定の属性を攻撃する形式ではなく、「過去にこのような問題があったので私たちはこうやって変えていこう」とする前向きな提案こそが適しています。

 社会の構成員を敵味方に分類すれば必然的に社会は分断されていきます。それによって生じる軋轢は社会問題を解決に進ませる原動力とはなり得ず、余計な抵抗勢力を生むだけの損耗です。そうやって敵を打ち滅ぼすことを目的化することは無価値であり、私たちが目的としてフォーカスすべきは社会問題を解決することです。

 そのためには一致団結して挑むことが適切で、一致団結するための紐帯となるのが「お前たち」ではなく「私たち」とした括りになります。

 

結言

 社会問題が議論されている場では意識的にせよ無意識的にせよ属性によって「こちら」と「あちら」を分けて、ひたすらに「あちら」を攻撃して打ち滅ぼそうとする言説を用いる人がいます。

 しかし厳しいことを言うようですが、それは社会の分断を加速させるだけで社会問題の解決には資さない行為です。特に先天的な属性をもって他者を断罪しようとする行為は差別と同様の行いであると認識する必要があります。

 本当に社会問題を解決することを議論するのであれば、他の属性を差別するのではなく一致団結して問題にあたるための紐帯を維持すること、そして変えようがない過去を用いて批判するのではなく皆で参画できる前向きな提案を提供することです。