忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

インターネット上で議論はできるか?

『議論なんて結局は殴り合いだ』

という意見を先日見かけたため、これはどうしたものかとここ数日ほど考えています。インターネット上で議論はできるのでしょうか?この疑問自体も各所で語られ尽くしているような気がしますが、ちょっと思考を整理してみたいと思います。

 

議論(ディスカッション)と討論(ディベート)の違い

 インターネット上では各所で様々な事柄において日々意見交換が繰り広げられています。その多くは議論(ディスカッション)ではなく、良く言えば討論(ディベート)、率直に言えば殴り合いです。

 議論と討論は異なる概念です。様々な意見を持った人々が集まり共通の結論を探し求めるのが議論で、対立した意見をぶつけ合いどちらがより良い主張かを競うものが討論です。どちらも批判的思考を用いるものですが、議論は自らの意見を含む全ての意見を批判的に見るのに対して討論では対立意見を批判的に検証します。

 議論は討論とは違い、勝ち負けを競うのではなくそれぞれの意見を持ち寄ってより良い答えを探すものです。皆で食材を持ち寄りなんの料理を作ろうかと話し合うのが議論で、『究極の料理VS至高の料理』のように競い合うのが討論だと言えます

 インターネット上で行われている意見交換は一部が討論、わずかに議論があり、残りのほとんどは討論の体すら為していないただの殴り合いです。「俺はこう思う」「お前の意見は間違っている」と持論を押し付け合うのは議論とも討論とも呼べるものではありません。

 

必要なのは討論ではなく議論

 各所で見かける意見交換では何らかの社会問題をテーマとしたものが多く見受けられます。そうであれば本来必要なのは討論ではなく議論のはずです。テーマとなっている社会問題を解決することを目的として、皆が納得できる適切な解決方法や妥当な落としどころを探し求めるための議論をするべきであり、討論やルール無用の殴り合いによる勝った負けたという争いは無意味です。たとえ討論や殴り合いに勝ったからといって世の中の仕組みがその勝者に従って変わるわけでもなく、負けた人はまた別の場所に行って別の人と殴り合うだけであり、物事が前に進むことはありません。

 

なぜ議論が行われないか

 なぜ社会問題をテーマとしているのにその問題を解決するための議論が行われないか。それは単純にインターネット上での意見交換の場がオープンなコミュニティだからだと考えます。

 議論は参加者全員が『この問題の解決方法を探す』という共通の目的意識を持たなければ適切に進みません。しかしオープンなコミュニティではその目的意識の統一を図ることができず、討論をしたい人、殴り合いをしたい人、ただ騒ぎたいだけの人といった人々の乱入が容易です。結果、議論としての方向性がまとまることなく、酒場の乱痴気騒ぎめいた騒乱に陥ってしまいます。

 これは別にインターネットだから悪いという話ではなく、オープンなコミュニティ自体の持つ欠点です。実際の会議室で匿名性を剥ぎ取って意見交換を行ったとしても、それが開かれた集合であればあるほど共通目的を持たずに議論を荒らす人は参加し得ます。

 

議論の場をどう作るか

 とはいえ社会問題の解決には議論が不可欠です。そしてインターネットは皆が意見を持ち寄るには絶好の場であることは疑いようがありません。インターネット上で適切な議論の場を構築出来れば様々な社会問題の解決に資することでしょう。その方法を整理してみます。

 一つはクローズドなコミュニティで議論をすることです。『この問題の解決方法を探す』という共通の目的意識を持った人々のみが参加できる状態にすれば議論の入り口に立つことができます。これはSNSのDMやコメント承認制のブログ、オンラインサロンといった方法で実施されています。オープンコミュニティの利点である集客性は多少損ないますが、それでも実際に人を集めるよりも集客は容易であり、また非同期コミュニケーションが可能なことから議論を深めやすい方法と言えるでしょう。欠点としてはクローズドな分情報発信力が乏しく、多くの人が関わる大きな社会問題を取り扱うには不適という点です。

 一つは数人の代表を立て、発言主体をその人々に委託する方法です。衆人は外野で観察しつつ意見を飛ばし、その意見を取り上げるかどうかは代表者に委任されます。これは言論サイトと呼称されるようなwebメディアで実行されており、著名人同士が代表として議論を重ね、その内容について衆人が外野からではありますが意見を出しています。欠点は代表者の資質に依存するという点です。残念ながら議論の作法を知らない代表者が殴り合いを始めることがあります。また代表者が外野の意見をまったく取り入れずに持論に固執するようなことがあってはオープンなコミュニティとしての利点を完全に損なうことになります。著名人がただ議論を交わすのであればクローズドなコミュニティである書籍や他の媒体で充分です。

 

議論をするために必要なもの

 いずれにしても議論を成り立たせるのであれば人選と場は不可欠です。街中を歩いている人を手当たり次第捕まえてきて議論をしようとしても上手くいかないように、適切な環境で適切な人を集めなければ議論は成り立ちません。誰もが自由に参加出来る議論というのは残念ながら幻想です

 陣営分かれて対立意見をぶつけ合うような討論や各論入り乱れての殴り合いが好みであればそれもまた自由であり良いのですが、少なくともそのような場は問題を解決したいという意思を持っている人が参加すべき環境ではありません。

 よってインターネット上で議論をしたいのであればそれが出来る場に移動する他無いでしょう。それが整っていないコミュニティサイトで議論をしようとしても無駄です。無価値な非難や有害な誹謗中傷を被ることになるだけでその場を議論の場に整えることは出来ません。玉石混交の情報収集を目的とするならばいいでしょうが、不適切な場所で議論を展開しようとしても多くは徒労に終わることでしょう。