私はインターネットに関しては若者の言に概ね従う派です。
私も一応は子どもの頃からネット環境のあった世代ですのでそこそこ慣れてはいるつもりですが、この手の変化著しい分野に関しては若者の知見には到底敵いません。
例を挙げると、以前ある若者に言われた「ネットに書いていいのは大きな声を出して駅のホームで言っても問題ないことだけにすべきだ」は常に心掛けています。
ネットは現実の延長線上であり、暴言や誹謗中傷、一線を超えた発言や世間に許容されない話題は控えることが望ましいとする考えはデジタルネイティブらしい現実的な発想ですし、昨今のネット情勢における殺伐とした訴訟事例などを考えれば実に妥当です。
そもそも攻撃性が薄い
このブログでは特に取り繕うこともなく極めて自然体で文章を書いています。
そもそも駅のホームで語れないようなことを人に語る習慣を持っておらず、暴言や誹謗中傷を詳らかに他者へ提示する趣味は嗜んでいませんが、それでも「これは公共の場における言説だ」とした認識は常に持ち続けています。駅のホームで許されない話題や言説はここでも当然書きません。時々グレーなテーマを取り上げることもあるものの、それもやはり駅のホーム理論に従って言及しているつもりです。
まあ、他者の悪口を軸に集団の結束を強化するような仕草を必要とするクローズドなコミュニティがあることは理解していますし、人の趣味はそれぞれだとも思っていますが、私は他人の悪口を言うことを楽しいとは思わないです。わざわざ人様のアカウントに罵言を吐きに行ったり、裏アカを作って他者の悪口を言ったりする暇があるなら別のことをやっていたほうがマシなんじゃないかと思っています。
ただ、このような考え方のせいか人の暴力性や加害欲には共感ができず、根本的に理解すらできていないような気がします。
もちろん理解と共感は別物であり共感は必須ではないものの、社会的な物事を分析する上で欲求への理解が浅いことは個人的な課題です。
理解できないものでも、存在はしている
この手のこと、「そもそも他者の何らかの欲求が理解できない」ことは誰にでもあるかと思います。
例えば私を含めてほとんどの人は痴漢をする人の気持ちや麻薬を吸う人の気持ちが理解できないことでしょう。欲求のトリガーが自らの内に存在していてそれを理性の力で抑えつけているのではなく、そもそもそういったことをやりたいと考えたことすらない人からすれば犯罪行為を行う人の考え方は理解や関心の埒外となります。
ただ、私たちが理解できていない欲求は私たちが理解できていないだけで現実には存在していることには注意が必要です。人の認知は自らが理解できないことを不可視化してしまう傾向を持ちますが、それは認知バイアスに他なりません。
その認知バイアスを認識せずに自らが理解できない欲求や事象を無視したり排除したりする行為、それは問題を解決するための最大の障害です。
問題解決の基本は「問題を定義し」「原因を特定し」「対策を図る」ことですが、その問題を引き起こしている欲求を無視してしまっては原因が適切に特定できず目先の事象にしか対応できなくなってしまいます。
さらに言えば自らが理解できない欲求それそのものを問題としてしまう極論に走る危険すらあります。
そうやって他者を排除することは明らかな人権侵害となりますし、原因への対策を打てないことから別の問題が生じるばかりです。
排除の論理は基本的に人権侵害と国家権力の横暴に繋がるものであり、極めて慎重に検討され尽くしてから実施されたほうがよいでしょう。あまり極論を述べたくはありませんが、この道は「○○○の因子を持つ人の脳を国家が事前に弄ります」といったような管理社会へと繋がる悪路です。私はそんな社会は好みません。
問題解決はそういった弥縫策に頼らず、正しく現状を認識し、原因を特定して対策を打たねばなりません。
ビジネスに限らず世の中の問題でも同様に事象=問題という錯誤に陥っている事例があまた見受けられます。「こういうことが起きている」「それは問題だ」という論理展開です。
しかし実際はその起きている事象によってどんな問題が起きているかを深堀りし、なぜこういうことが起きているかの根っこを捕捉し、そこに対策を打つ必要があります。そうしなければ、葛のつるを引っこ抜くような事態となり、延々と続く不毛な議論と無意味な対策のもぐら叩きに陥りかねません。
結言
脳の自動的な情報処理によって自らが理解できないものを無視したり排除したくなったりすることは、民主的な社会を維持するためには努力して避ける必要があります。
なぜならば民主的な社会とは話し合いを基軸としたものであり、話し合いをするためには双方向で相手の言い分を聞くことが必要なためです。不可視化は相手の言い分の拒絶と同義であり、それはつまり話し合いを拒んでいることと同義です。そして排除はより積極的な話し合いの拒絶です。
認知バイアスに逆らう行為はひと手間必要な面倒事であり、楽な道ではないでしょう。しかし人々のそういった努力が無ければ民主的な社会は砂上の楼閣とならざるを得ないでしょう。