忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

話し合いでは意見を述べ『なければいけない』

 少し苛烈ではありますが、私は会議の場などで発言しない人に忖度しません。意見を出した人だけをはっきりと優先して扱います。

 これは一部の意見を排除することが目的ではなく、むしろどれだけ異端な意見や多数派と異なる意見であっても意見を述べるのであれば必ず拾いますし、幅広く意見を収集するために発言を促しもします。しかしそれでも意見を述べない場合は、それはすなわち意思決定の委任だと認識することにしています。

 

 もちろん人には得手不得手があり、人前で意見を述べたり他者と異なる意見を述べることを苦手とする人が居ることは重々承知しています。

 ただ、厳しいことを言いますが、それは「話し合い」の放棄に他なりません。私たちが自由で民主的な仕組みを維持するためには否応なしに「話し合い」の場へ立たなければならず、人々はそのコストを支払う必要があります。

 

「話し合い」の拒絶

 当ブログで度々述べてきていますが、話し合いでは一方通行であったり意見を押し付けるのではなく相手の言い分を聞いて理解することが必要であり、話し合いは必ず双方向でなければいけません

 つまりは言葉の字面通り、読んで字の如く、ということです。話し合いとはこちらの言い分を押し付けることではなく、話し合いであり、すなわち相手の話を聞かなければならないのです。これは話し合いにおいて絶対に必要なルールです。

話し合いが生じるということは、絶対的な正解が存在しないということ

 

 先日の記事でも述べたように、人が話し合いをするためには相手の意見を聞くことが不可欠です。話し合いという通り双方向で言葉を交わすことが必要であり、互いに聞く耳を持たず持論を押し付け合うのは話し合いと呼べる代物ではありません。

若者には異なる意見に触れる機会を増やして欲しい

 

 そしてこれは逆説的ですが、相手の言い分を聞くだけでなく自らの言い分を述べることも必要であることを意味します。意見の中身は同意でも異論でもなんでもよく、何はともあれ双方が自らの意見を発信しなければ双方向性が損なわれて話し合いではなくなります。

 相手に自らの意見を述べないことは話し合いの拒絶に他ならず、たとえ真剣に話し合いへ参加しているつもりだとしても、話し合いを放棄し、話し合いを壊していることと同義です。厳しい言い分ではありますが。

 

民主的な仕組みの維持にはコストが掛かる

 民主制は極めて脆弱な形態です。自然に成り立つことはあり得ず、偶然の恩寵と努力のコストを支払わなければ維持することは叶いません。

 しかしながら民主制は強いから生き残ってきたのではなく、地理的な都合で侵略されずに済んだだけです。民主主義指数を見ると分かるのですが、民主主義国家として成り立っているのはユーラシア大陸の端や近隣の島国、民主主義国家からの移民によって出来た国のみです。ユーラシア大陸の中央付近では戦争や遊牧民の襲撃によって国家が長期的に生存できなかったため、多くは非民主主義国家であり続けています。

 

 実のところ民主制はかなり脆弱な仕組みです。独裁制に比べれば資本力が段違いなため一見戦争に強く見えますが、ナチスドイツのように内から民主制が崩壊することがあります。中国が行っているような超限戦、すなわち議員を買収して中国のために工作活動をさせたり、大量の移民を送り込んで中国に有利な議員を多数決で擁立するといった外部からの攻撃にも強くはありません。私たちのような民衆が自由に生活するための民主主義は、守る努力をしなければあっさりと消え去ってしまう砂上の楼閣であることを忘れてはいけないでしょう。

 

 そこまで頑強な言葉ではないため異なる側面を持って民主制を定義する人も多々居るとは思いますが、民主制の根幹が「話し合い」であることに異論は少ないでしょう。互いに完全には理解し合えない異なる利権を持つ個々の主権者がそれでも暴力や権力に頼らず互いの利害を調整して物事を成り立たせるために用いるものが民主的な「話し合い」です

 よって私たちが自由で民主的な仕組みを維持するためには、話し合いを避けたり、ましてや話し合いを放棄することは望ましくありません。

 

結言

 和を尊ぶ日本の精神はとても美しいものだと思っていますし、私も基本的に波風を立てるのは好みではありません。しかし話し合いが必要な場では意識を切り替えて自らの感情ではなく意思と合理に従い、積極的な意見交換と利害調整を図るために発言を促し、自らも意見を発信します。

 これは生来の能力ではなく訓練によって会得したものです。欧米の人々が自らの意見を外部に発信することが得意な理由は生まれつきや遺伝ではなく、そのような訓練を幼少期から受けてきたからに他なりません。自由で民主的な仕組みを維持するためには努力のコストが不可欠であり、欧米社会では多くの人々がそのコストを支払っていることを意味します。

 

 何も日本的な美徳を損ねる必要はありません。ただ、民主的な話し合いの場では一度そういった美徳を捨てるのではなく脇に寄せて、民主的な美徳である「話し合い」に注力することが必要ではないかと愚考しています。

 

 

余談

 学術的な根拠はありませんが、欧米社会と日本では「話し合い」の意味合いが異なっているのではないかと想定できます。

 人種や宗教などが混在している欧米社会では話し合いを『互いに理解し合えないことを前提に、それでも落としどころを見つけるために行う行為』と捉えている節があります。

 対して日本ではそういった属性的な分断が少ないため、話し合いを『互いに理解し合うために行う行為』と考えている人が多いのかもしれません。

 日本人には少し厳しい話ですが、民主的な話し合いとは前者を意味しています。意見や感情は一致しないことが前提であり、それでも結論へ至るまで皆で積み上げて努力する行為が民主的な「話し合い」です。

 つまり、民主的な話し合いとはしんどいものなのです。しかしそのしんどさのコストを人々が厭い支払わなくなれば、自由で民主的な仕組みは失われます。