忘れん坊の外部記憶域

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単純化のバイアスを解消するための簡易的な方法

 ビジネス系の情報を見て回っていると、週に何度も「頭の良い人とそうではない人の違い」みたいな宣伝文句を見かけます。

 それが記事を読ませるための惹句であることは重々承知しつつも、そもそも頭の良い人はそんな単純に世の中の人を二分しないのではなかろうかと少し辛辣な感想が脳裏をよぎるのは、恐らく私がひねくれ者だからでしょう。

 

思考の省エネ

 「白/黒」「善/悪」「やる/やらない」といったように、物事を単純化して二分する思考は二分法的思考と呼ばれています。

 類似の概念としては、例えばベストセラー本である『ファクトフルネス』で語られた10の思い込みのひとつ、「世界はひとつの切り口で理解できる」思い込みの単純化本能、あるいは複雑な物事を皮相的に単純化して把握するタブロイド思考も類型と言えるでしょう。

 まとめて言えばこれらは単純化と呼ばれる認知バイアスです。

 

 いずれにしても人は物事を自らが理解できるところまで単純化して考える思考の癖を持っています。

 しかし現実の物事は大抵の場合複雑で類型化が難しく、単純化し切れないことがほとんどです。単純化によって削ぎ落とされる情報も含めての現実であり、情報の欠落があってはもはや現実の投影とは言えないでしょう。

 もちろんありとあらゆる物事を複雑なまま取り扱うことは不可能です。それだけの莫大な情報を処理することは出来ませんし、そんなことをしていては単純に日常生活へ支障を来たし過ぎます。バイアスによって生じる問題は特殊な場合でない限りバイアスによって得られている利得に勝らないものです。あらゆる物事を複雑化したまま受け止めようとしていては今日の食事だってままなりません。単純化自体は必要不可欠な脳の省エネ機能だと言えます。

 よって私たちにとって望ましいバランスとは、単純化のバイアスの恩恵を受けつつ日々を過ごし、しかしその落とし穴にはまらない程度の警戒心を持つことです。

 そのために最も簡単な方法は、心に悪魔を飼うことだと考えています。

 

悪魔の代弁者

 ディベートの用語に『悪魔の代弁者(devil's advocate)』があります。これは多数派の意見に対してあえて反対意見や批判を述べる人、もしくは役割を意味しています。

 悪魔の代弁者は議論の参加者による同調圧力を抑止して方向性が固定化することを防ぎ、異なる視点を提供することによって議論を促進させます。よって健全で活発な議論においては必要な存在です。

 前述したように、現実の物事を簡潔に説明しようとすると情報の欠落が絶対に生じることから、単純化の認知バイアスに陥る危険が必ずあります。そういった言説を見かけた際はこの悪魔の代弁者を心から取り出すことで、ある程度の単純化を見破ることが可能です。つまりはリトマス試験紙として用いるわけです。

 

 例えばインターネット上では男女に関する問題がよく議論されていますが、「男はああだ」「女はこうだ」といった類の言説はほぼ全ての場合で単純化バイアスが生じています。実際には「ああでない男」も「こうでない女」も存在しており、情報が欠落している以上現実がそうかは断定できないはずです。そもそもそれは男だから、あるいは女だからそうなのかも証明されていません。

 他にもネットで多い言説の例を挙げれば、「日本スゴイ」や「日本駄目だ」も同類でしょうか。それは本当に日本だけで生じていることなのか、日本で実際にそういったことが生じているのか、統計的な比較データは存在するか、そういった視点を持つことが単純化バイアスを回避するには有効です。

 こういった単純化された言説に対しては、本当にそれには因果関係や関連性があるのか、主語を置き換えたら通じなくなるか、そういった批判的な反対意見を悪魔の代弁者に出させることが有効です。

 

 ネットスラングで言うところの「主語が大きい」言説は全てが単純化バイアスの結果だとすら言えるかもしれません。単純化によって主語を大きくした場合は必ず情報の欠落によってその例外が排除されているのですから。

 

結言

 そもそも物事を単純に捉えること自体が問題かと言えば、そこまで問題でもありません。大抵の場合はそれで事足りますし、そのほうがエネルギーを無駄遣いせずに済む、実に効率的な脳の仕組みだとすら言えます。

 ただ、単純化は時に落とし穴のような問題を生じることもありますので、踏み外さないよう取り扱いには注意し、単純化の奴隷になることは避けたほうが無難だと思っています。