忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

誰が言っているかでフィルターするのは合理的だけども

 軽いんだか重いんだか分からない話。

 

なんだ、○○○か

 インターネットを徘徊していると、特に党派性が高い堅苦しい分野に限らず、どの分野でも情報に対する嗜好での選別行動を見かけることがあります。

 それは例えば「なんだ、○○○が書いた記事か」「タイトルだけで誰が書いたが分かる」と、著者やライター、サイトや新聞社で選別し、本文を読むまでもないと投げ捨てるような行動です。「○○○か、解散」や「○○○が書いた文章だから読む価値無し」といった少し過激な域に達している言説も時々見かけます。

 この行動を定義する学問的な用語が何かしらあるかもしれませんが、残念ながら存じていないため、今回は「情報に対する嗜好での選別行動」と直截的な表現を用います。

 

 嗜好での選別行動は別にインターネットに限った話でもなく、人の嗜好が関連する行動であれば必ず見られる傾向ではあります。好みではない作者の本は意図的に避けるでしょうし、ツボが合わないエンターテイナーの芸を見に行くことはないでしょうし、嫌いな食材をわざわざ買う人はそういないでしょう。

 ただ単純に、日常生活では内心思っていたり独り言で言うだけのこれらがインターネットでは形となって流れるので見かけるだけです。

 

合理的ではあるけども

 膨大な情報が流通する現代社会において、ありとあらゆる全ての情報に接するのは現実的ではなく、情報を取捨選択して受け取るためにも自身にとって不要と思われる情報をフィルターするのは不可欠です。

 その中でも著者やライター、サイトや新聞社といった基準をもって選別するのはとても合理的ではあります。発信される情報は同一の傾向を持っているものであり、フィルタリングの基準としてはとても効果的です。

 

 ただ、こういったフィルタリングによって、見たい情報しか見ず、見たい情報しか表示されなくなると、党派性は容易に先鋭化します。

 そうなると、物事の是非を「事実ベース」ではなく「誰が言っているか」の権威主義的態度で判断することになってしまいます。それはどちらかと言えば避けた方が良い物事の見方です。

 フィルタリングによるエコーチェンバーやフィルターバブルを避けるには情報源を意図的に多様化するしかありません。

 

 もちろん現実的にある程度のフィルタリングは必須です。人である以上好き嫌いは存在するものであり、何も嫌いな情報に無理して触れることはありません。

 ただ、自身が部屋(chamber)や泡(bubble)に閉じ込められているかを意識することは必要だと思います。

 それを意識しているかどうかが過激化や党派性バイアスに陥らないための分水嶺ではないでしょうか。

 

今回の主題

 人それぞれ好き嫌いはありますので、フィルタリングはある程度必要ですし、それは合理的な判断の結果です。上述したようにリスクはあるものの、それ自体を否定するつもりはありません。

 ただ・・・別に言わなくても良くないですか?

 冒頭で述べたように、インターネットを徘徊していると「情報に対する嗜好での選別行動」を行った旨を報告するようなコメントを散見するのですが、ざっくばらんに言って個人的に好みではないのです。

 「なんだ、○○○が書いた記事か」に類するコメントは、回りくどい表現になってはいますけど、批判的要素が無く相手を攻撃する意図を僅かばかり含んでいますのでこれは批難です。罵言を含んでいないので誹謗中傷には該当しませんが、批難だって褒められた行いではありません。

 

 別に好き嫌いがあるのは人間である以上仕方がないのですが、好きなライターさんや作家さんの文章が「”あいつのだから”読む価値無し」なんて言われているのを見かけると悲しくなるのですよ。

 

 

結言

 批難はせず、せめて読んでから内容や見解について批判をするか、読まないにしても黙って去ればいいのではないかと、そう思う次第です。