忘れん坊の外部記憶域

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匿名の言葉をどこまで信用できるかには議論の余地がある

 私個人としては「誰が言ったか」「どう言ったか」よりも「何を言ったか」を優先する考えを持っています。

 ただ、それは必ずしも「誰が言ったか」「どう言ったか」に価値が無いことを意味するわけでもなく、また万人に適用可能な発想ではないとも思っているため、「誰が言ったか」「どう言ったか」にも気を配る必要はあると考えます。

 つまるところ、「何を言ったか」が重要であることには変わりないものの、「誰が言ったか」「どう言ったか」を人の思考から除外することは出来ませんし、そうすべきでもないということです。完全に依存でもなく、完全に排除するでもなく、適宜状況に応じて使い分ければ良いでしょう。

 

 それはすなわち「何を言ったか」を注視してもらうためには否応なしに「誰が言ったか」「どう言ったか」にも注意を払う必要があるということです。

 

 とはいえ冒頭で述べたように、原理として重視されるべきは「何を言ったか」です。「誰が言ったか」「どう言ったか」は現実的には必要な要素ですが本質的には枝葉に過ぎません。

 今回は「誰が言ったか」への依存度を下げるにはどうすればいいかを考えていきましょう。

 

Chatham House Rule

 他者の発言の真偽を誰もが即座に判定することはできない以上、「誰が言ったか」によって信憑性を担保することには確かに意味があります。度を過ぎれば権威主義的態度に陥る危険があるものの、まったくもって無益であると排除することはできません。

 しかし、非匿名の発言が必ずしも有効に働かない場合もあります。

 それは例えば

「〇〇新聞の記者が言っているんだから信用できない」

「この△△△というライターの記事は読む価値すらない」

「この会社役員の発言は、業界の利害関係があるから同意できない」

といった、自らの党派性や思想信条に基づいて情報が遮断されるリスクです。「誰が言ったか」でフィルタリングする閾値次第では、必要以上に情報を遮断してしまい自らの作り出したフィルターバブルに囚われることも起こり得ます。

 

 このように発言者の匿名性に関しては一長一短がありますが、一つ、匿名性をあえて持たせている事例を紹介しましょう。

 それはイギリスの王立国際問題研究所、通称チャタムハウスが考案したチャタムハウス・ルール(Chatham House Rule)です。

 チャタムハウス・ルールはとてもシンプルで、以下の一文のみで構成されています。

When a meeting, or part thereof, is held under the Chatham House Rule, participants are free to use the information received, but neither the identity nor the affiliation of the speaker(s), nor that of any other participant, may be revealed.

出典:https://www.chathamhouse.org/about-us/chatham-house-rule

チャタムハウス・ルールの下で会議が開催される場合、参加者は受け取った情報を自由に使用できるが、発言者やその他の参加者の身元や所属は明かしてはいけない。

 

 これは自由闊達な議論を促進するためのルールです。

 非匿名の環境では誰しも所属する組織や団体の利害を考慮した発言を求められます。例として、大手新聞の記者が自社の編集方針に沿わないことを述べるのは難しいですし、石油会社の社員が石油の問題について提起することだって困難です。

 チャタムハウス・ルールに基づいて会議が行われる場合は所属に囚われない自由な発言が可能になります。将来的な自分の評判や引用された場合の影響などキャリアに関わるリスクを心配する必要もありません。同時に、他者の意見に反論や疑義を唱えることや党派的なグループ思考による少数意見の迫害を抑止する効果も見込まれます。

 あえて匿名性を持たせることには議論を促進する効果がある、これは一つの利点として認識する必要があります。

 

もちろん匿名は万能ではない

 このルールの利点を鑑みれば匿名は非匿名に勝る、と言うわけではありません。

 チャタムハウス・ルールのような匿名の会議は適切なファシリテートの下で共同体の課題を議論するために用いられる手法であり、そこには共同体にとってより良い結論を導き出すことへの目的意識と責任感、そして紐帯が不可欠です

 インターネットは同様に高い匿名性を持ちますが、適切なファシリテーターは存在せず、同じ目的意識と責任感を共有した関係性でもないことから、言い逃げや誹謗中傷が必然的に発生します。よってチャタムハウス・ルールの匿名性と同列に扱うことはできません。

 非匿名にも問題はありますが、匿名であれば良いわけでもないことには注意が必要です。

 

責任の所在に関して

 結局のところ、意見の軽重は責任の所在にあります。

 非匿名の発言は発言者に多大な責任が生じます。だからこそ発言には重みがある分、不自由です。

 対して匿名の発言はどこにも責任が生じていません。だからこそ発言に重みが無い分、自由です。

 どちらも一長一短であり、責任の不在も責任の偏重も問題が生じるならば、その対策として別の場所に責任を置くことが必要です。

 

 よって私は情報の受け手がどう情報を受け取ったかにも責任が生じるべきだと考えます。匿名における無責任性が問題であるならば、情報の受け手が免責されることも同様に問題です。

 情報の受け手に責任が生じると考えれば、「誰が言ったか」を盲信することもなく「何を言ったか」の理解と解釈に注力するようになります。

 私が個人的に「誰が言ったか」を重視していないのは、この責任の所在を明確にしているからです。私は匿名であろうと非匿名であろうと、受け取った情報をどう解釈しどう取り扱うかを私の責任として考えています。誰が言ったことであろうとそれを引用したり活用する場合は私が責任を負うべきですし、誤読や誤解も私の責任です。だからこそ「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」の解釈へ真摯に向き合うことができると考えます。

 

結言

 少し極端な言い分ですが、匿名性を剥ぎ取ったとしても無責任な発言を言論空間から無くすことはできません。それは現実の言論空間や実名によるアカウント、非匿名の掲示板などを見ても分かるかと思います。

 それは片務的な責任の所在が原因です。言論空間では発言者に限らず参加者の誰もが同じ目的意識と責任感を共有する必要があり、それだけが建設的な議論を構築し得る以上、情報の受け手も同程度に責任を負うことには意味がある、そう考えます。