このブログでは言論の正当性や妥当性について「誰が言ったか」「何を言ったか」「どう言ったか」を基準に述べてきました。
◆「何を言ったか」のためにも「誰が言ったか」「どう言ったか」は重要
基本的には「何を言ったか」が重要だと考えるものの、それを伝えるためには「誰が言ったか」「どう言ったか」も注意する必要がある、そんなスタンスです。
今回はそれに関する追記を。
受け手のことを考えるのは送り手側の責任
意見表明や情報発信には必ず発信者と受信者がいます。
そのことを考慮すると、「誰が言ったか」「何を言ったか」「どう言ったか」と合わせて「誰に言ったか」にも注意が必要です。
これはある意味で正論と綺麗事の区別に近いものがあります。
綺麗事とは「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」という意味で、一般に非難の意を含んだ用いられ方をする言葉です。
類似の扱いをされがちな言葉が正論ですが、正論は「道理にかなった正しい意見や議論」という言葉であり、語意そのものには非難の意味はありません。この2つはしっかりと分けて考えたほうがよさそうです。
例えば通勤で車を使う人に対して「制限速度は守らないといけないよ」と言うのは正論です。それに対して、車に乗っていて津波に遭遇した人に対して「制限速度は守らないといけないよ」と言うのは実情にそぐわないので綺麗事です。
たとえどれだけ適切な人が適切な言い回しをもって正しいことを伝えたとしても、それが相手にとって実情にそぐわない内容であれば言論の正当性を主張することは難しいでしょう。少なくとも第三者的に正しいことと受け手が正しいと感じることには差異が生じ得ます。
それこそ雑なたとえ話として、お金持ちの人が「お金は重要ではない、もっと大切なものがある」と誰かに述べたとして、それは本人にとっては正しい見解かもしれませんがそれを述べられたのが今日食べるご飯にも困っている貧乏な人であれば「なにとぼけたことぬかしてんじゃこちとら金が無くて困っとるんじゃボケコラ!」と喧嘩も止む無しです。
正論と綺麗事の境界線は環境と状況、そして個々人によって可変するものであり、だからこそ発信者は「誰に言ったか」にも注意を払う必要があります。
インターネットとの相性の悪さ
そう考えるとインターネットは実に「誰に言ったか」と相性が悪いコミュニケーションツールです。
対面や電話、手紙やメールは送受信のそれぞれが明白です。
雑誌や新聞などは不特定多数を相手にしているとはいえ、実際には購読者は限定的です。その雑誌や新聞社の色や傾向を好まない人はそもそも購買しない選択を取ることから、ある程度選別的にコミュニケーションが為されています。
ネット、特にSNSのような拡散性の高いオープンコミュニティのコミュニケーションツールは発信に指向性がなく全方位へ発信されるため、他と比較して著しく不特定多数の受信者が対象となります。雑誌や新聞のような購買の障壁すらなく誰でも見れる状態になっていることから発信者が受信者をまったく選ぶことができません。
特定の個人に向けて発信する仕組みではない以上やむを得ないことですが、その結果として発言が多数の受信者に伝われば伝わるほどコミュニケーションのすれ違いが必然的に生じます。
これが企業や組織であれば広報などの専門部署がマネジメントしつつ発信するのでまだリスクを多少なりとも低減することができますが、一個人がこのリスクを管理し切ることは相当なセンスか努力が無ければ難しいことでしょう。世に炎上騒ぎが止まないのはある意味構造的な問題だとすら言えます。
結言
とはいえ「誰に言ったか」をコントロールできないのだからネットで情報発信をすべきではない、なんて極論を述べたいわけではありません。
各所で散々言われているように、このような軋轢を避けるためには発信者側ができる範囲で注意することと同時に受信側でもNot for meの精神が必要です。発信者に噛み付いたり否定したり誹謗中傷をしたりするのではなく、「私に向けた言説ではない」と見て見ぬふりをする姿勢があれば問題は生じません。この受信者側による取捨選別が無ければ言論空間は委縮する一方となるでしょう。
まあ、誰もがそれをできれば誰も苦労はしないのですが。
なんともはや、難しい話です。