「何を言ったか」「誰が言ったか」「どう言ったか」のどれに重点を置くべきかが人々の間で話題になることがあります。
単純な事実関係に関する弁論であれば話の中身である「何を言ったか」を重視すべき、のはずですが、そうは問屋が卸さないのが人の世というものでしょう。
「人の物を盗んではいけません!」
と万引き常習犯が言ったって説得力が皆無なように、
「こうすれば簡単に儲かります!」
と事業に失敗した社長が言っても響いてこないように、
「てめぇ!人に高圧的な態度を取るのはよくねぇって言ってるだろうがぁぁぁ!」
と大上段に怒鳴り散らしている人がいたら呆れてしまうように、
「誰が言ったか」「どう言ったか」ということは否応なしに人の判断基準へ介入してきます。
認知バイアスの是非
前述したように本来的には「何を言ったか」が重要であり、「誰が言ったか」「どう言ったか」が気になってしまうのはいわゆる認知バイアスです。聖人君子が言おうが万引き常習犯が言おうが「窃盗は悪い」ことに変わりはありません。
しかしながら、「ではこのような認知バイアスを無くせば全てが良くなるか」と言えばそうとも限りません。生物はまったく不要な機能は退化して失うものであり、現時点で残っている機能は必ずしも無駄とは言い切れず、何かしら役に立ち得る場合もあるからです。
「誰が言ったか」「どう言ったか」の認知バイアスに関しても思考の効率化として役立つ側面を持っています。
そもそもこのような認知バイアスを人間が持っているのは、かつてそれが生存へ有利に働いた結果だと考えられます。情報の正誤が不明瞭で体験と口伝以外に情報入手の機会が無い古代の時代では情報の確度を発言者に依存せざるを得ず、権威ある長老なり村長なりの語る言葉が真であると判断することは大変に合理的なものでした。
いちいちそのような権威者の情報を疑っていては生存も危うくなります。長老が危ないと言った動物は実際に危ないのであり、村長が逃げろと言った状況では即座に従って逃げる必要があります。それを疑ってモタモタしていては生き延びることはできません。
冒頭に記述した事例からも分かるように、「誰が言ったか」「何を言ったか」が説得力を左右するのはこのような生存に役立つ認知バイアスの名残が私たちに残っているからだと言えます。
そしてこの認知バイアス自体は現代でも不要というわけではありません。認知バイアスに基づいた情報確度の判定は高度に発展した現代社会では必ずしも適切とは言えませんが、それでも全ての情報を個別に疑って精査するような手間を掛けることはできず、ある程度はこの認知バイアスに従って情報を受領しなければなりません。
むしろ現代の情報化社会では情報を取捨選択する速度がより必要になっており、この認知バイアスの必要性は増していると言えそうです。
とはいえ「誰が言ったか」「どう言ったか」はその情報が真であることを保証するものではありません。この認知バイアスに頼り切らず、自身にとって重要な情報に対しては適切な精査と推論を働かせる必要もあります。
「何を言ったか」のためにも「誰が言ったか」「どう言ったか」は重要
つまるところ、「何を言ったか」が重要であることには変わりないものの、「誰が言ったか」「どう言ったか」を人の思考から除外することは出来ませんし、そうすべきでもないということです。完全に依存でもなく、完全に排除するでもなく、適宜状況に応じて使い分ければ良いでしょう。
それはすなわち「何を言ったか」を注視してもらうためには否応なしに「誰が言ったか」「どう言ったか」にも注意を払う必要があるということです。
「何を言ったか」が重要であって「誰が言ったか」や「どう言ったか」なんてどうでもいいことだよ
というのはある種の正論ではありますが、これこそがまさに「何を言ったか」だけでは人々に響かない理由の一端というわけです。
「何を言ったか」を見てもらいたい人は逆説的に「誰が言ったか」「どう言ったか」に注意し、積極的に自らの意見内容に沿った言動を心掛け、実績を積み上げて、人々に届くような表現を用いる必要があります。