忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

両論併記の是非と責任の所在

「このような言説を世間に開示しては世の中の人々に誤解を与えてしまう」

「だからこそ両論併記はすべきではない、正しい情報だけを世間に流通させなければ」

 時にメディアの言論人が語るこのような両論併記に対する言説について個人的には否定的なため、当ブログで何度か取り上げてきた両論併記の是非について再び述べていきます。

 

両論併記と誤った等価関係

 大抵の物事は賛成一色や反対一色になることなどまず無く、ある程度のグラデーションを持って意見が分かれます。両論併記とは文字通り、そういった賛否等の相対する複数意見がある場合にそれら全てを記載することです。

 例えば

「ある調査ではきのこの山がこれだけの人気を博しています」

だけを記述するのではなく、

「別の調査ではたけのこの山のほうが好きな人が多い結果が出ています」

というような複数意見が存在する場合は、それらを並べて書くことが両論併記です。

 

 両論併記に対して否定的な意見は複数あります。その最たるものが誤った等価関係に対する認識です。

 これは、両論が存在するとはいえその比重は必ずしも均衡が取れている等価なものではないため、その比重に無関心であると誤解が生じる危険があるというものです。

 誤った等価関係を例示するには疑似科学や偽医療が分かりやすい事例となります。

「この○○○には健康促進の効果は無い」(根拠のある99%の見解)

「この○○○には健康に良いという意見もある」(根拠のない1%の見解)

 等価性への言及が無い安易な両論併記をした場合、実際は根拠の薄弱な1%の意見がまるで99%の意見と同程度の根拠を保有している確固たる見解なのだと誤解される危険がある、これが誤った等価関係という論理的誤謬です。

 もちろん誤った等価関係が存在することは事実であり、それに対して警戒することは何も問題が無い適切な反応です。

 

誰が正しいかどうかを決めるのか、決定と被害の関係性

 ただ、その『正しさ』を決めるのは誰であるべきなのかに対して意見に違いがあります。

 両論併記に否定的な側からすれば、『正しさ』を決めるのは発信者であるメディアや言論人です。物事の正誤を判断できる優れた知識人が情報を精査し、正しい情報のみを選択的に発信すべきだとするのが理由です。

 それは一つの道理ではあります。しかし、大変に嫌味な言い方をしますが、それは「無知蒙昧な大衆では情報の正誤を判定できないのだから、我々のような優秀な人間が正しい情報を選別して下賜すべきだ」といった姿勢に思えてしまいます。それではまるで専制や独裁のような有様ではないでしょうか。

 

 私は両論併記について肯定的です。物事は出来得る限り両論併記を行い、最終的にその中から『正しさ』を決定するのは情報の受け手である民衆であるべきだと考えています。それは専制や独裁を好まない民主主義の徒として、民主主義的決定の最大の利点は受益者と選択者が一致していることにあると考えているためです。

 確かに民衆は必ずしも正しい選択を取れるとは限りません。よってなるべく間違えないよう優れた人間が導いてあげるべきだというのは一つの理屈ではあります。

 しかしそれでは決定と被害に乖離が存在することになります。誤った選択に至った場合に損害を被るのは常に民衆であり、だからこそ意思決定には受益者たる民衆が民主的に携わるべきだと私は考えます。

 自分が害を被らない物事であれば人はいくらでも無責任な態度や言動を取り得てしまうものです。さらには人が決めたことによって被害を受けた場合、人は当然責任を感じず誰か他の人のせいにしてしまいます。

 民主的意思決定が他に比べて優れているのはまさにこの点、自らの決定による責任を自らが引き受けざるを得ないことにあると考えます。「愚民の上に苛き政治あり」というように、この決定と被害の連動こそが真剣な態度と責任感を生むものであり、一部の人が物事の『正しさ』を決めるような仕組みは誰も彼もが無責任になる望ましくない状態になりかねません。

 

 もちろん全面的に民衆の知を信頼せよと言いたいわけではなく、知識人による情報の精査は不可欠です。

 よって、全ての人が責任を自覚して行動するためにも、メディアは全ての情報を両論併記し、ただし安易な言い訳の併記に堕さず自らの責任を持って意見への見解を述べる、しかしその情報を最終的に判断するのは民衆であるべきだ、そう考えます。

 

結言

 比率が異なる賛否両論という点で、ここ数年世論を騒がせたワクチンを例としてどのような両論併記が望ましいかを例示していきます。

 

「ワクチンは有効だと言われています」

 これだけでは、人々が情報の正誤を判断するどころかそもそも別の意見があることも把握できないため、もしこの情報が間違っていた場合でも人々は一切責任を感じないでしょう。

 発信側も同様、人の意見を紹介しただけであり責任は無いという言い訳が通ってしまいます。

 よってこれは無責任な言論や意思決定を蔓延させかねないものだと考えます。

 

「ワクチンは有効だと言われています」

「ワクチンは有効ではないという意見もあります」

 一見して両論併記されているのだから良いように見えますが、これは誤った等価関係をもたらす典型的な悪い両論併記のやり方です。少なくとも科学的に主流な見解は前者であり、後者は決して同程度のエビデンスを持っているわけではありません。しかしこのような両論併記ではその区別が付かなくなってしまいます。

 これでは誤った情報を垂れ流しているのと同義です。

 

「ワクチンは有効だと言われています」

「ワクチンは有効ではないという意見もあります」

「しかしこのような医学的知見や医学者の見解から、我々はワクチンが有効であると考えます」

 これが望ましい両論併記のやり方だと考えます。

 両論を併記しつつ、さらに等価性にも言及してメディアや知識人が『正しさ』の判定に責任を持った言説を講ずる。しかし最終的な判断はその両論を見た民衆が民衆の責任によって行われる。

 これであれば誰も彼もが責任を自覚することができるでしょう。

 

 確かに責任を持つというのは大変なことです。

 しかしそれでも、誰も彼もが無責任な社会よりは、たとえ大変でも皆が責任を自覚した社会の方が幾らかマシではないかと思うため、私は適切な両論併記が為されることに肯定的です。