忘れん坊の外部記憶域

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ジャーナリズムの新たな役割に関する考察:情報のゲートキーパーではなくマネージャーへの転換

 

 偽りのバランス/両論併記主義と呼ばれるメディアバイアスがあります。

 これは、対立する意見のある問題でそれぞれの実際の証拠とは釣り合いが取れていない意見を対等であるかのように並べることで誤認を招く認知バイアスです。気候変動において根拠薄弱な温暖化懐疑論を並べたり、天体物理学者と地球平面論者を並べて地球の形について議論させることなどが「偽りのバランス」の代表例としてよく用いられています。

 

肯定と否定

 私自身はこれについて否定的で、むしろ両論併記を是とする考えですが、まずは偽りのバランスを排除すべきとする肯定的な意見を整理してみましょう。

  • 偽りのバランスは情報の信頼性を錯覚させて誤情報の拡散を招き、社会的混乱を助長する。
  • 読者の判断力には限界があり、人間は直感的判断・ヒューリスティックに依存しやすく、印象や感情で誤った情報を信じてしまう。
  • 専門性の低い読者が科学的根拠のある主張とそうでない主張を区別するのは困難であり、公共機関であるメディアが責任をもって適切な情報を選別して、質の低い情報の氾濫を抑えるべき。読者には信頼のおける正しい情報を知る権利がある。

 概ねこのような意見でしょうか。

 

 反対に、私は次のように考えます。

  • 誤情報であっても隠すべきではなく、安易に情報を選別すると「メディアは情報を隠している」とした陰謀論を助長しかねない。誤っていることは誤っているとラベルを貼った上で情報空間へ流通させるべき。
  • 民主主義社会においては主権者たる読者に判断を任せるべきではないか。情報のゲートキーパーとしてジャーナリストが情報を選別することは少数者による情報管理に繋がり、非民主的な構造を生む危険がある。
  • 読者に専門性が無いことは同意するが、ジャーナリストに専門性があるかどうかも議論の余地がある。それぞれの専門家をピックできる仕組みの方が必要。
  • 読者には信頼のおける正しい情報を知る権利があることには同意。
  • 質の低い情報の氾濫を抑えるべきであることにも同意。ただしそれは選別的方法である必要はない。

 

 一部に否定的で、一部に肯定的です。前者を「制限モデル」、後者を「放任モデル」として、これらから落としどころとなる新たなモデルを検討してみましょう。

 

支援型報道モデル

 【入力層(情報の放出)】⇒【処理層(情報の構造化)】⇒【出力層(情報に基づく判断)】の雑なモデルにおいて、【入力層】を制御しようとするのが「制限モデル」です。

 適切な情報だけを人々に与えれば正しく判断できるだろうとした考えは一見妥当に思えますが、しかしそれは一部の人々による情報の取捨選別に他ならず、選別者の善心に依存したシステムだと言えます。

 また、異なる判断は双方の無理解や無知ではなく信念や思想、経験や環境によっても生じるもので、人は同じ情報を得ても同じ判断をするとは限りません。それはニュース一つ取っても賛否両論の意見が飛び交う言論空間を見れば容易に分かることでしょう。それらの全ては無理解や無知から生じていると安易に考えるのはナイーブに過ぎます。

 そもそも現代は情報発信が容易になった時代であり、【入力層】をどうこうしようとすることには限度があります。誰もがニュースや動画を発信できる時代に全ての不確かな情報を止めることはまず不可能です。

 よって情報のゲートキーパー(門番)だけで制御を図ろうとするのは限度があります。「偽りのバランス」は問題ではありますが、それが生じないようにするよりも生じることを前提として情報空間を構造化したほうが現実的です。

 

 とはいえ「放任モデル」が全てを解決するわけでもありません。誤情報の拡散力は高く、人々は間違えた判断をするものであり、何も手を入れなければ情報空間のエントロピーは増大するばかりです。

 

 中庸を図るため、双方の合意できるポイントを抽出してみましょう。

  • 社会的混乱を防ぐ・・・社会的混乱を是とする極端なアナキスト以外には合意が得られそうです。
  • 民主的である・・・少数者による独裁を肯定されると困るのですが、恐らく民主主義の価値は合意が得られると思います。
  • 読者は正しい情報を知る権利がある・・・「読者は誤った情報を知る権利があるか」では意見対立が生じますが、正しい情報を知る権利がある点については合意が得られるでしょう。
  • 質の低い情報の氾濫を防ぐべき・・・方法の違いとして情報の選別をどうするかで対立がありますが、目的自体は合意できるはずです。

 これらを満たすためには、【入力層(情報の放出)】⇒【処理層(情報の構造化)】⇒【出力層(情報に基づく判断)】のうち入力層に手を入れることが必須でないことが分かります。むしろ【処理層】にこそ情報の専門家たるジャーナリストの介入余地がありそうです。

 

 新たなモデルを「支援型報道モデル」と名付けてみましょう。「制限モデル」や「放任モデル」とは異なり、【処理層】へ積極的に手を入れることを主眼とします。

 【入力層】では多様な情報の流通を許容し、その主体はメディアや情報発信者です。

 【処理層】では流通している情報の信頼性や方向性の整理・識別・ラベリングを積極的に行い、その主体はメディアやジャーナリストです。

 【出力層】は流通した情報に基づく意見形成や選択を行う部分であり、ここは民主的に主権者たる市民が主体です。

 要するに、情報リテラシー教育やファクトチェックの延長です。社会的混乱を防ぐために質の悪い情報を発見して抑制し、正しい情報にラベルを貼って拡散し、民主的な意志決定の健全性を保つことでも「偽りのバランス」がもたらすバイアスを軽減することと同じ効果を発揮できます。

 

 さらにその先として、情報の信頼性インデックスの作成と提示、健全性や信頼性モニタリング、専門家コメントの併記や引用、情報の系統図化や時系列整理、論点や論拠など言論空間のマッピング、テーマ別のクラスタリングやナビゲート、対話型報道の拡張、などなど、【処理層】で行える職能は様々です。

 流入してくる全ての情報を検閲することもできず、入る門の位置だって自由な現代の情報空間においては、入口のゲートキーパーではなく内部のマネージャーこそがキーパーソンであり、その仕事を担える業界はジャーナリズムだけでしょう。

 私としてはこのような方向へ進むことがジャーナリズムにとって良いのではないかと考えます。

 

結言

 入口を制限するやり方は独占的であり、しかし放任すれば荒廃を招くばかりです。

 そのような二項対立を超えるためにはやり方を変える必要があり、私はジャーナリズムに情報のマネジメントを期待しています。

 メディアはもはや限界に至った情報の選別者としてではなく、情報環境を設計する建築家となるべきです。そのほうが情報空間の健全性に役立つ付加価値を持てますし、そして民主的であると信じます。

 つまり、ジャーナリズムとは「真実の代理人」ではなく、「真実へのアクセス経路の設計者」であるべきです。