昨今世間を騒がせがちな誤情報や偽情報、所謂フェイクニュースについて当ブログでも度々述べてきましたが、また少し情報をまとめてみましょう。
情報整理
誤情報とは誤解を招く意図の有無に関わらず拡散される虚偽や誤った情報であり、偽情報とは世論に影響を与えるため意図的に拡散される虚偽や誤った情報です。意図の有無が明確な差ではありますが、いずれにしてもこれらはインターネットを筆頭に各種メディア上で蔓延しており問題視されています。
特にオンラインでの社会的行動とビジネスモデル、所謂アテンションエコノミーは偏見やフェイクニュースを助長して不信感や分裂を生むことに一躍買っています。少なくともこのモデルは社会や人々の幸福へ繋がるものではなく、一定の是正が必要でしょう。
フェイクニュース問題への対処は大きく分けて二通りの方向性があります。
一つは検閲的方法として、安全と思われる方向へ導くための基準と実務的権限を特定の団体や個人へ持たせること。
もう一つは開放的方法として、権限やルールではなくオープンな競争によって最善の方法を定めること。
そして或いは、それらの中間を探ることです。
The Ministry of Truth(真理省)
第一のアプローチは真理省です。
これはジョージ・オーウェルの代表作『1984年』に登場する省庁であり、民衆の思想を統制するためのプロパガンダ機関です。
ファクトチェック団体などの代表的な組織がフェイクニュースを検閲して撲滅するこのモデルは、一見すると合理的で確実に思えます。
しかしこのような組織は必然的に中央集権的組織とならざるを得ません。極端な話、ある情報に対して構成員が是々非々の判定を下すようでは組織の目的を達成できない以上、いずれか片方だけを是とする人以外はノイズとして組織から排除されます。
そのような画一的思考を是として内部摩擦を避けて外部からの情報を受け入れない組織は健全性を維持することができず、必然的に権力が集中して腐敗を招くことになります。構成員が熱心に組織へ忠誠を示せば示すほど、組織が本来奉仕すべき人々との乖離は広がるばかりです。腐敗した中央集権組織が正しい情報を発信し続けることができると考えるのはナイーブが過ぎると言えるでしょう。
また、組織の外部にいる一般人は「真実の消費者」となり、独立した思考を放棄するようになります。独立した思考は真理省の提言する真実と反するリスクがあるためです。
その結果、人々は主体性を失い、個人の人権は抑圧されて、批判的思考が弱まり、冷笑主義や宿命論が蔓延ることとなります。
さらに、独立した思考を個々人が持てない状態では民主主義社会も維持できないことから、一部の人々は真理省へ反発を抱くようになります。その反発心はフェイクニュースを撲滅しようとする当初の目的と真逆に、権力の発言とは真逆のことだけを信じ込む人々を生み出す結果をもたらすでしょう。
以上より、統制による真実の追求とフェイクニュースの撲滅は、腐敗した権力集団とそれに反発することだけを目的とした集団の組織化を生じます。それらはどちらも独立した思考を放棄した集団であり、著しく不健全で、そして結局は真実の拡散に繋がりません。
無政府状態
第二のアプローチは真理省の反対です。
すなわち、統制を行う機関の不在、自由放任の無政府状態を是とし、善悪や正誤を判断する責任を個人に課するシステムです。
オープンで競争的な公共広場は最良のアイデアが生じる可能性を高めて、信頼できる情報と情報ソースを拡散させることが期待されます。少なくともネットのオープンソース文化など一部のコミュニティではこのようなモデルが適切に運用されていると言っていいでしょう。
ただし、このようなモデルは風通しの悪い中央集権組織のように腐り難いものの、治安が維持されるとは限りません。制約が無い状況では著名人や大資本など独占的なパワーを持ったプレイヤーが自らの利益のためにシステムを乗っ取ることが可能なためです。乗っ取られたシステムは少数が多数を支配して競争の発生を阻み、真理省と同様に情報の画一化が生じます。
また、無政府状態は必ずしも人々に自由をもたらしません。
そのような環境下における人々の最大の関心は「他者を含む全体の自由」ではないためです。
情報は妥当性や正確性、社会全体への影響によって取捨選択されるのではなく、個人の経済的インセンティブが優先されます。それは煽情的で時に有害なコンテンツが優先的に拡散される状況をもたらし、他者の自由を抑圧した方が強者としては利得が大きくなることから人々の自由を制約する方向となります。
すなわち、人々が意図的に作り出した巨塔が支配するか、強力な誰かが自分のために作った巨塔が支配するかの発生的な違いだけであり、無政府状態は真理省と同じ結末をもたらします。
情報の民主共和制
第一、第二のアプローチは同じ結末として反対意見を黙らせる方向へと進み、それが結局はフェイクニュースの蔓延をもたらします。
私たちが志向すべきは第三の道、統制と無秩序の狭間です。
誤情報の発信者を黙らせようとする試みは「我々の理屈が正しいから批判を受けているのだ」と彼らの正当性を確証させるだけであり、むしろ彼らは自らの正しさに自身を深める結果をもたらします。
必要なのは高圧的に黙らせることではなく、オープンで、誰もが確認や評価を下せる状態で、異論をも許容する敬意ある議論の場に他なりません。無秩序でも抑圧でもないバランスである”秩序”が必要です。
敬意ある議論の場では異論の抑圧は許容されません。異論の抑圧では情報の正誤ではなくプレイヤーのパワーによって抑圧の可否が判定されます。それは時にフェイクニュースの勝利すらもたらすでしょう。
プレイヤーの強弱を排除して情報の正誤だけを俎上に載せるためには、オープンで、誰もが確認や評価を下せる状態で、異論をも許容する敬意ある議論の場が必要です。
言うなれば情報の民主共和制です。専門家と民衆の混在した集団が民主的かつ共和的に情報の正誤を定めること、すなわち皆で正しいであろう情報を選ぶことは、真理省や無政府状態の強者が判定するよりも長く健全な情報環境を維持することができるでしょう。
結言
たしかに一方的な熱狂者との議論は難しいものであり、その際に相手を抑圧して黙らせようと考えることは自然な発想かと思います。
熱狂者は結論ありきで自身の理屈を裏付けるために論点をずらし、有利な部分だけをピックアップし、時に論点を作り出します。固く揺るぎない考えを持つ人と話し合うことは苛立ちを覚えることでしょう。黙らせたくなる気持ちは分かります。
しかしそれは極めて局所的です。情報の正誤はそういった局地戦で定まるものではなく、議論の場にいようといまいとそれらの情報に触れる全ての人々が判断すると考えるべきですし、そうした情報環境こそ構築する必要があります。
そのために重要なのは誤った情報を黙らせることではなく正しい情報をより拡散することに他ならず、私たちはフェイクニュースを撲滅することではなく、真実を拡散すること、そしてそれを皆で検証することにこそ注力すべきです。
もちろんフェイクニュースは正しい情報よりも拡散性が強いことを考えればこれが最善の方法ではないかもしれません。
しかし少なくとも真理省や無政府状態よりはマシです。フェイクニュースを撲滅するための性急なアクションは情報の独裁を生み出し、より多くのフェイクニュースを生み出しかねないことを留意する必要があります。