忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

情報の信頼性に関する私的な考え方

 

 昨今はフェイクニュースに関する言及を各所で見かけるようになりました。

 そういった嘘情報や情報の信頼性について、特に深い思索ではなくただ思っているところを述べていきます。今回は定量的な分析や主張ではなく、ただの思い付きの意見です。

 

情報の信頼性に関する考え方

 まずフェイクニュースが増えたかどうかについて。

 量的には間違いなく増えているでしょう。インターネットの発展前と比べれば情報の発信者が遥かに増えていることから、誤った情報の量そのものは確実に増えているはずです。

 ただ、比率が増えたかについては不明です。いくら情報発信者が増えたとしても結局のところ一次ソースとしての情報発信源が急増したわけではなく、多くの人は二次的・三次的な情報発信者に過ぎないためです。

 要するに昔は噂話程度で流れていた怪しい伝聞情報がインターネットの力で増加・可視化されただけであり、本質的にフェイクニュースの比率が増えたかどうかは検証が必要でしょう。

 そもそも昔はフェイクニュースが少なかったかと言えばそうとも断定できず、ただ情報が精査されていなかっただけの可能性もあります。二次的・三次的な情報発信者による情報精査が行われていなかった時代ではフェイクニュースに気付けない、あるいは気付いていてもそれを広範に伝達する術が無かったわけで、そう考えると現代が昔に比べてフェイクニュースの比率が増えたとは必ずしも言えないはずです。よってフェイクニュースには気を付けなければいけませんが、現代の情報空間にフェイクニュースが溢れていることに対して闇雲に悲観的になる必要はないような気がします。

 

 次に信頼できる情報源に関して。

 「誰が言っているか」で情報を選別する行為は簡易的かつ現実的な方法ではありますが、そもそも信頼できる情報源があると考えるのは少しナイーブではないかと思っています。

 常に間違えない人間は存在しないように、常に信頼できる情報源は現実には存在しません。

 よって個人的には情報源が信頼できるか/信頼できないかの二元的発想はリスキーだと考えています。それよりは信頼度合いの重み付けを取るほうが精度は高いでしょう。

 要するに情報が信頼できるかどうかは複数の情報源に当たるべきだと考えています。

 そもそも情報の正確性は比較しなければ判別できません。どれだけ明らかに見える事件であっても加害者と被害者と目撃者の言い分を聞かなければ実情は分からないように、事象とは複数の側面から見て検証されて初めて信頼できる情報となります。単独の情報とはそもそも信頼するしない以前の状態です。

 よって情報源の信頼性を信頼できるか否かの二元的に見るのではなく、複数の情報源から発信された情報を比較して初めて情報の信頼性を考えればいいと思っています。

 

結言

 そもそも情報を分析するためには知識(Knowledge/Intelligence)や知恵(Wisdom)が必要であり、能力や時間の制約を考えると誰にでもできるわけではないのが根本的な問題ではあります。なんとも、難しい問題です。