忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

イエスマンの賛否両論に関する見解

 皆さんどうも、ノーマン(No man)です。イエスマン(Yes man)とは対照的な存在です。ノーマンというと普通に名前っぽくてややこしいですね。

 昔見たノー・マンズ・ランドという戦争映画が面白かったような記憶があります。もはやあらすじすらまともに覚えていないくらい昔ですが。本当に面白かったのかどうかも記憶があやふや、覚えているくらいだから多分面白かった・・・はず。

 話が逸れました。

 技術屋というのは設計に抜けや穴があると大変困るので、まずは批判的に問題点を見つけ出そうとするものです。そんなあこぎな商売をしておりますと、批判的思考が身にこびりついてしまいどうにも穿ったモノの見方をするようになります。

「これは本当に正しいのだろうか?」

「別の見方があるのではないか?」

「何か見落としているものは無いだろうか?」

「根拠となるデータは存在するのか?」

「例外になり得るような事例はないだろうか?」

「前提条件を最も過酷にしても耐えられるだろうか?」

「あえて逆の視点から反論してみようか?」

「エビデンスは?」

 いやもうこの設計完璧じゃん何の問題もないしこれでOKOKええやんこれについて会議するだけ時間の無駄だってば、というような状況であろうと、まずはイエスと受け入れず疑うところから始めます。私のような天邪鬼には実に向いている商売です、もはや天職なのかもしれません。

 

If all you have is a hammer, everything looks like a nail.

ハンマーしか持っていなければ、全てが釘に見える

ということわざがあります。正しい引用ではなくむしろ誤用に近いですが、技術というハンマーを鍛えるには全てを釘に見るような訓練が必要なのです。

 そんなわけで、技術屋、少なくとも私や私の職場に居る技術屋の人々は全員まごうことなきノーマンです。若手にはイエスマンが居ますが、技術職の空気に染まっていくにつれて素直さは失われ、キラキラと美しく輝いていた瞳は徐々に濁り、人に冷たい視線を向けるようになります。熟成されて立派なノーマンになるのです。

 うーん、良いところがスポイルされているような。

 

イエスマンには具体的な定義が無い

 イエスマンの存在には賛否両論があります。どちらかというと蔑称として使われることが多い言葉であるため人によっては意外と思うかもしれませんが、ちゃんと賛成意見もあるのです。

 賛成者曰く、イエスマンというのは上司の無理な指示でもイエスと受け止め、実現出来る方法を考えて即座に行動できる人であり、上司に反発したり無理ですと言ったり即座に行動できないようなノーマンは使えない、ということのようです。

 確かにそんなイエスマンは優秀ですし、ビジネスで求められている自律的思考やスキルを持っていると言えるでしょう。

 

 さて、あえて言葉を定義せずにここまで書いてきましたが、そもそもイエスマンというのはなんでしょう?イエスマンに賛否両論があるのは実のところ言葉が正確に定義されていないことがそもそもの問題です。変な話、ストローマン論法に近い状態となっています。それぞれが好き勝手に想定したイエスマン像を用いて、それに賛否を言っているだけです。

 一応辞書的な意味は次のようになります。

信念がなく、何を言われても「はい、はい」と人の言いなりになる人。どんなことでも権力や目上の人の命令に全くさからわず無批判に従う人。

 賛成側は「はい」と言った後の行動について述べており、反対側は「はい」と言うこと自体について述べているため、噛み合わない議論となっています。

 

責任の所在次第

 述懐されている見解は時間軸の違いだけでなく視点も異なります。

 賛成側の意見は経営者目線です。組織として素早く行動するためには意思決定が遅滞なく伝達されて全員が行動することが良いことであり、意思決定者である経営者の意思が即座に反映されることこそが良いことだと考えられています。結果の責任は意思決定者が負うものであり失敗したらそれは指示した意思決定者の責任なのだから、つべこべ言わずとっとと行動しろということです。

 ここに反対側との乖離があります。反対側の意見は実行者目線です。上の指示を無批判に実行した結果、本当にその結果の責任を上が取ってくれるのかと疑問に思っているからこそ、イエスマンを批判することになります。

 つまり責任の所在次第でイエスマンの賛否は変わり得るということです。結果の責任を全て上司が持つのであればビジネスの速度を損ねないよう部下はイエスマンであったほうが良いでしょう。反対に実行者に責任が一部でもあるのであれば無批判にイエスというべきではありません。

 

技術屋目線でのイエスマンの否定

 両論の比較は以上です。

 私の個人的見解としては、少なくともイエスマンの技術屋には否定的です。技術屋としては設計に責任を負う立場である以上、無批判なイエスマンになるわけにはいきません。もちろん最終的な責任は意思決定権を持つ偉い人ではありますが、その設計に一番詳しいのは設計者本人だからです。自らの設計に責任を持てないものを市場に出すべきではありません。

 人は自らに責任が無いことに対しては手を抜いてしまいがちです。批判的になってしまうためあまり参考事例として出したくはないのですが、旧日本軍と自衛隊が良い対比になります。

 旧日本軍では上官の命令は絶対であり、指示におかしな点があったとしてもそれに従うことを良しとする風潮がありました。指揮官が全ての責任を負うという名目でしたが、その結果もたらされたのは部下への責任転嫁や盲目的な前動続行による組織の劣化・破滅です。

 その反省から自衛隊では上司の指示に盲目的に従うのではなく、「改善に役立つと信ずる事項については誠意をもって積極的に上官に意見を具申しなければならない」とされています。

 まあ実態としてどこまで出来ているかはなんともですが、少なくとも無責任な集団に堕しないためには組織をイエスマンで固めるべきではないでしょう。

 

結語

 人は必ず間違えます。そして結果に対する責任を意思決定者が取り切れるわけもありません。よって、そもそも間違えないために批判的見解を集めるほうが良いと考えています。組織には悪魔の代弁者が不可欠です。