日頃は軽いテーマを重く語りがちなので、今回は趣旨を変えて、重いテーマをなるべく軽く語ってみましょう。真面目な話が少し続いたので切り替えの意味も込めて。
そんなわけで、軽い気持ちで軽めの言葉遣いで「死」について取り扱ってみます。いやー、テーマが重すぎるなー。
明日死ぬとしたら
「毎日を最後の日だと思って生きよう」
「明日死ぬと思って生きなさい」
「メメント・モリ(いつか必ず死ぬことを忘れるな)」
死を意識することで時間を無駄にしないようにして、やるべきことに毎日全力で取り組むべきだ、という考えはとても立派だと思うのですが、私はこのような考え方で生きる自信がありません。
だって本当に明日死ぬとしたら、まずは大して入ってない貯蓄用銀行口座の暗証番号を母に伝えて、半分は両親、残り半分は姉と妹に分配するよう頼むじゃないですか。そのあと種々の契約を解約したり友人や職場に連絡したりして迷惑を掛けないようにした後、普段使い用の口座から全額引き出して半分くらい寄付にぶち込んだら、残りは普段食べないような高級な飯屋で美味しいものを食べて、なんか適当に散財して、次の日に気分良く死にたいです。残金はその辺を歩いている子どもにでも渡して。
いや、分かってはいるのですよ、そこまでガチめの行動をしろということではなく「明日死ぬと思え」というのは比喩だということは。でも明日死ぬと思うというのはもうそのくらい全力投球なイメージなんです。しかしこれをやったら後がないわけで、さすがにそこまでやれないよなー、そもそも毎日できないしなー、という加減を知らない気持ち。馬鹿なのかもしれない。
死生観は大きく分けて2つ
メメント・モリという言葉は時代によって意味合いが変わっています。
「いつか必ず死ぬのだから、今を楽しめ」という楽観論
「いつか必ず死ぬのだから、現世は空虚だ」という悲観論
豊かだった古代ギリシャ世界では前者の意味合いで用いられたのに対して、疫病と飢餓が身近であった中世キリスト教世界では後者の意味へ変わりました。つまり実のところ「死」についての価値観は世情と個人次第というところです。別の表現を用いれば、「死を恐れないようにするか」「死を恐れるか」とも言えるでしょう。
エピキュリアン的思想
私個人としては、今のところ死を恐れるものだとは考えていないです。まあ馬鹿だからというのもありますが、恐怖に突き動かされるのは癪に障るので嫌だという天邪鬼的スタンスなせいでもあります。恐れることを恐れるほどの小心者だからかもしれません。
しかしなによりエピクロス派の考えが好きだからです。エピクロス派の死生観は大雑把に言ってしまえば、
「死は恐れるものではない。なぜならば、我々が存在する時には死は存在せず、死が存在する時には我々は存在しないから」
というような考えです。死んだら無になるという前提ではありますが、死んだら感覚なんて無くなるんだからビビるこたーねーよ、という楽観的思考が実に好みなのです。
古代ギリシャの哲学者エピクロスの思想的根源は心の平静(アタラクシア)を追い求めることでした。彼の思想に共感した人々をエピクロス派、エピキュリアンと言います。
エピキュリアンは日本語では快楽主義者と訳されますが、実のところ快楽の意味合いが少し異なります。エピクロスの考えを大雑把にまとめますと、
死は恐れるものではなく、人は楽しく生きることを追求すればいい。
快楽こそが善であり、人の目標である。
快楽とは過剰な追及ではなく、「欠乏の充足」を意味する。
例えば空腹という欠乏は苦痛である。
これを食事によって充足し、苦痛を取り除くことが快楽である。
逆に度を越えて食べればまた苦痛が生まれるので良くない、腹八分目にしておくと良い。
快楽を求めすぎると苦痛が大きくなるものであり、これは心も同じである。過剰が生じないよう思慮深く避けなければいけない。
つまり最高の状態というのは肉体的に健康で苦痛が無く、心の平静があること、静かな喜びに満ちた生活こそが理想的である。
エピクロスの思想は快楽主義者という言葉のイメージからは想像も付かない、大変穏やかな考えなのです。もはや道教における仙人のような思想です。子どもの頃の夢が仙人になることだった私としては理想的ともいえる思想であり、今のところはこの哲学者の思想がモットーです。将来的にはまた変わるかもしれないですけど。
いつか死ぬのだから、今を楽しめ
つまるところ、廻り回って「毎日を(楽しみのために)頑張って生きる」というところに辿り着きました。頑張ることには変わりないですが、気持ちの持ちようが違うということです。明日死ぬとしたらなんてちょっと悲観的な表現はどうにも、なんとも、好みではないというだけでした。悲壮に生きるより楽観で生きるほうが単純に好みなのです。
memento mori(いつか必ず死ぬのだから)
carpe diem(今を楽しめ)