忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

流されるままであるか、流れに逆らうか:選択をすることの価値

 世間や他者に流されたくないと考える人は多いでしょう。

 もちろん世間や他者の濁流に反発するのは大変であり、ただ流されることを好む人もいます。

 そのどちらが偉いという話ではありませんが、流されるままの状態は自らの意志が外部へ影響を与えていない状態、意志の非存在だと言えます。

 そして自身の意志が存在していない環境、自らの意志による理が実現されてない状況において人は理不尽を感じるものです。理不尽は苦痛を生み出す根源の一つであり、だからこそ流されるままであることは楽なように見えて、実際は苦しみを生むものに他なりません

 それを避けるためには自らの意志を持ち、世間の濁流に流されるままとはならない必要があります。

 

 ただし、流れに反発する方法にもまた注意が必要です。

 

ただ反発すればいいわけではない

 世間や他者の流れに逆らうことを目的としてはいけません。

 流れに逆らうことは、流されるままでは生じてしまう苦痛を避けるための手段に過ぎないためです。

 

 世間や他者の流れに逆らうことが目的となってしまった場合、その流れに乗ったほうが心地が良いような状況でもその流れに乗れず苦痛を生じる可能性があります。

 厳しい話ではありますが、世間に逆らうとだけ決めてそれ以外の選択肢が取れない状態、それは結局のところ縛られているのと変わりないものです。傍から見れば意志があるように見えるかもしれませんが、流されるままであるのと同様に意志の非存在に足を踏み入れています。

 頑固一徹、初志貫徹の精神は素晴らしいものです。しかしながら度が過ぎれば必然的に理不尽を生み、苦痛が生じることになるでしょう。

 

目的を正しく定める

 目的とすべきは世間や他者の濁流にただ流されることでも頑迷に逆らうことでもなく、流れによって生じる苦痛を回避することです。

 それはつまり、流されるにせよ逆らうにせよどちらかで決め打ちするのではなく、また自身の意志を介さずに選択するのでもなく、都度都度自分自身で選ぶことが重要です。それを呑んでは苦痛が生じるのであれば反発し、それに逆らうことは苦しいのであれば流れに乗る、その選択の自由を持つことこそが理不尽ではなく納得を生み出す唯一の方法です。

 人は自ら選んでいない道からもたらされた結果には理不尽を覚えるものであり、自ら選んだ道であれば否応なしにある程度の納得を覚えます。納得こそが理不尽を解消して苦痛を緩和する術であり、特効薬です。

 

結言

 苦痛の回避を目的として、そのためには理不尽を避ける必要があることから、自ら納得を得られるよう意思決定の選択権を手段として用いる。

 流れに乗るにせよ逆らうにせよ、自らがそれを選ぶ。

 それこそが人生の苦痛を軽減して”生きやすさ”に繋がると私は考えます。