善意の是非については人によって意見が割れるものです。善意さえあれば結果は問わない人と、善意の有無ではなく結果が善行であることを良しとする人がいます。
私は明確に後者であり、善意には高い価値があると考えるものの善行をより尊ぶべきだと考えています。
もちろん善意はとても価値があるものであり、多くの善行は善意から生じることは疑いようがありません。だからこそ善意には大きな価値があります。
ただ、必要なのは自身や他者にとって効用のある善行です。誤った取り扱い方をした善意では善行を生むことはできません。
つまるところ、「やる偽善」とは精神的な善意の有無を問わず他者に貢献する行為であると考えています。善意があろうがなかろうが善行を為すからこそ「やる偽善」であり、ここで重要なのは善意の有無よりも善行であるか否かです。善意があればいいわけではないことは留意する必要があると考えます。
これについてもう少し補足的に言及していきます。
他者に配慮しない善は独善
善意の話をする際に私が例示として度々用いるのが押し売りです。
近所の人が隣人の平穏無事と健康と将来を心の底から祈って”霊験あらたかな壺”を100万円で売り付けにきたら、たとえそれが100%混じりっ気のない善意から生じた行動だとしても、正直に言って迷惑でしょう。そして人に迷惑をかける行為は善行とは呼べないものです。
つまり、たとえどれだけ善意に基づいた行動であったとしても、相手がそれを善だとしなければ善行にはなりません。相手が喜んで受け取れない行為は「余計なお世話」や「ありがた迷惑」となってしまいます。善意に基づいた行動が善行になるか否かは、それを送った当人ではなく受け取った他者が決めることです。
厳しい物言いとなりますが、「善意さえあればいい」とする見解は他者の迷惑や気苦労を無視してただ己一人のみを慮っている状態であり、それは独善・独り善がりと呼ばれるものです。
繰り返しとなりますが、善意はとても素晴らしいものです。多くの善行は善意から生まれます。善意の無い世界は殺伐としたものに成り果てることでしょう。
しかしだからこそ、その素晴らしい善意が正しく振るわれて善行となり人々に幸福をもたらせるよう、善意の無駄遣いとも言える独善に陥ることは避けたほうが良いと考えています。
送る側ではなく受け取る側の視点
善行か否かは送る側の善意の有無ではなく受け取った側によって決まること。
これは逆説的に、他者の善意を善行へと昇華させるかどうかは受け取り手である私たち次第でもあると言えます。
他者の気遣いに感謝して喜ぶ心、
他者の思いやりを素直に受け取る姿勢、
他者の配慮に気付き他者の善意に気付く注意力と知性、
そういったものが他者の善意を独善に陥らせず尊ぶべき善行へと昇華させます。
人の善意は価値あるものであり、だからこそそれを無下にしないようにしたいものです。
結言
善行とは個人の内で定まるものではなく、人と人の関わりの間にのみ生じます。
それを認識せずに自らの善意のみを大切にする仕草は独善に陥る危険があります。
善意を重んじるのであれば、自らの善意を大切にするのではなく他者の善意を大切にすることが重要です。相互に配慮した善意こそが善行へと至ります。