忘れん坊の外部記憶域

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真面目は美徳ではない

 美徳を「褒めるべき振る舞いや行い」と定義する場合、当ブログでは何度か言及していますが、真面目は美徳ではありません

 もちろん真面目であることは素晴らしいことです。真面目さは真摯さや誠実さ、親切心や継続力、そういった美徳を生み出す根源だと言えます。

 それら美徳を生み出すからこそ真面目さは素晴らしいことですが、ただ、真面目であることそれ自体は誉めそやされることではありません。

 

 今回はこのややこしい考え、「真面目であることは素晴らしいが、真面目そのものは美徳ではない」ことについて述べていきます。

 

真面目であっても良くない例

 「真面目は美徳」だと考えると、「真面目であれば良い」とする誤解が生じます。

 しかしながら、真面目であることはイコール良いことではありません。

 例えば100%善意の気持ちで毎日のように知人友人の元に通い霊験あらたかな100万円の壺を売ろうとする信者は、とても真面目だと評していいでしょう。しかしそれが善行で美徳、すなわち褒めるべき行いかと言えば、そうではないはずです。良く言ってもただの「ありがた迷惑」ですし、実際にはありがたくすらありません。

 親分のために毎日寝る間も惜しんで麻薬を捌き、真剣にショバ代を巻き上げ、全力でカタギに迷惑を掛けるヤクザは、やはり真面目ではありますが褒められたものではありません。

 絵画を汚し、街にペンキを塗りたくり、スポーツ大会を妨害する環境活動家はきっと間違いなく真面目で真剣です。真面目で真剣ですが、世間にとっては迷惑千万です。

 これらのような事例を考えれば、人は必ずしも「真面目であれば良い」わけではないことが分かります。

 

意思ではなく行動こそが重要

 真面目に人様へ迷惑を掛ける人がいる、これは真面目そのものが美徳ではないことを意味しています。真面目さは良い行動を出力する駆動力であるからこそ素晴らしいものですが、しかし必ずしも良い行動を出力するとは限りません。

 だからこそ人はただ真面目であればいいわけではなく、『真面目さから出力された良い行動の結果』こそが褒められるべき対象です。

 例えば真面目に勉強している学生であれば、「真面目に勉強している」姿勢ではなく「真面目に勉強している行動が褒めるに値する部分です。

 もっと極端な例示をすれば、「真面目に犯罪をする」「不真面目に犯罪をする」と並べれば、真面目であろうがなかろうが関係なく駄目だという話です。

 

 目的や意思ではなく行動や結果にこそ価値を見出す。これは功利主義的な考え方だと言えます。

 もしも人の頼み事を断れないのであれば、それを自らの利得に繋げたほうが良いです。善の基準は義務論ではなく功利主義を用いたほうが良いでしょう。功利主義とは行為の善悪は目的の有無ではなく幸福の有無で判断するという考え方です。

 功利主義的視点で言えば、相手に貸しを作るとか、自己満足を得るとか、そういったものを求めることは何ら恥じることではありません。むしろ人は与えた分だけ何かを得るべきであり、積極的にそういった利得を追及していくべきです。如何なる動機で行動しようとも相手が助かるのであれば、それは偽善ではなく善なのですから。

 

 功利主義的見地からすれば、真面目であろうが真面目でなかろうが、その姿勢の部分は重要ではありません。真面目であっても悪行は悪行ですし、不真面目であっても善行は善行です。厳しい意見ですが、善意が必ずしも善行を為し得るとは限りません。よって褒め称えるべきは"善意"ではなく"善行"であるべきだと私は考えます。

 真面目さも同様、真面目であるかどうかではなく、その真面目さによって何をしたかが重要ではないでしょうか。

 

結言

 真面目さは様々な美徳を生み出す根源であり、だからこそ素晴らしいものです。

 しかし、真面目さ自体は美徳ではありません。悪行を真面目に行う人が世の中には居るわけで、誤った方向へ真面目の力が発揮されれば極めて迷惑な事態になることは必至です。

 真面目さはそれそのものではなくそこから産み出された行動とその結果如何が重要であり、真面目であることを賞賛しては誤解が生じかねません。