忘れん坊の外部記憶域

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絶対的な肯定も、絶対的な否定も、リスクに他ならない

 当ブログで度々取り上げてきた、「何を言ったか」「どう言ったか」「誰が言ったか」問題。

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 基本的には「何を言ったか」が重要だと考えるものの、それを伝えるためには「誰が言ったか」「どう言ったか」も注意する必要がある、私はそんなスタンスです。

 ただ、やはり「誰が言ったか」を盲信するのはリスクだと考えます。それは肯定・否定のどちらでもです。

 

美徳と欠点は表裏一体

 どれだけ優れている著名な言論人やメディアであっても、彼らの意見の無謬性を担保するものはありません。人は必ず間違える生き物ですし、ライフステージの変化や衝撃的な経験などによって意見が変わることは自然に起こり得ます。

 そしてそれは悪いことではありません。

 もちろん首尾一貫した意見を生涯貫き通すことも一つの美徳ではありますが、それは異なる側面から見れば頑迷固陋であるとも言えるわけで、その美徳を肯定することと変化を受け入れて意見を変えることは両立できるものです。美徳が美徳であるうちはそれを誉めそやし、欠点となる場合は改善を図る、そういった臨機応変な対応が適切だと言えます。

 それこそ正道を歩んでいるならばまだしも、ブラック企業の社長や陰謀論に染まった家族が「意見は絶対に変えない!」となられても困るでしょう。それはもはや美徳ではなく欠点です。"過ぎたるは猶及ばざるが如し"を肝に銘じる必要があります。

 

意見を絶対的に仮託することのリスク

 誰もが不変で無謬の存在ではなく、人は必ず間違えますし、多くの人は変化していきます。

 よって自らの意見をその「誰か」へ絶対的に仮託することは少し危険です。「あの人が言うから」「あのメディアが言うから」と盲信することはある種のリスクに他なりません。

 

 もちろんこれは程度問題であり、大抵の人は他者の意見を参照し参考にするものです。しかしその仮託先が間違えたり望ましくない変化をした場合にどうするかで違いが出ます。

 普通は「あの人も昔は良いことを言っていたのに、今は変わってしまったな」と離れていきます。

 この点が重要です。

 たとえ意見を他者に仮託したとしても、その是非の判断までは手放すべきではないでしょう。それを手放して他者の意見を絶対的に信じる行為は、人は間違えたり変化する生き物であることへの認識が少し鈍感だと言えます。

 これは絶対的な肯定に限らず、絶対的な否定も同様です。ネットでよく見かけるような「〇〇新聞の記事だから信用できない」「政府の発表だから信用できない」といったような声も実のところベクトルが真逆なだけの同根だと言えます。いずれにしても絶対的な肯定と絶対的な否定には盲信が含まれていますが、人は必ず間違えるし変化していくことは常々留意しておくべきだと私は考えます。

 

結言

 つまるところ0-1で物事の判断をするのではなく、ニューラルネットワークの重み付け的な感覚がよいかと思います。

 信用できる情報源や同意できるメディア、その反対に怪しい情報源や信頼性の乏しいメディアなど、世の中には様々な情報ソースがあります。それらを0-1で絶対的に肯定・否定するのではなく、重み付けによって情報に係数を掛けてあげればよいでしょう。

 たとえば、A社は勇み足による誤報が多いから0.4、B社は速報以外は信憑性が高いので0.6、政府広報は盛っている場合があるから0.8、といったようにです。

 どこかしらの情報を絶対視してそれ以外を受け入れないのではなく、どこかしらの情報を絶対的にシャットアウトするのでもなく、全て収集して、かつ重み付けによって比重を変える。そうすればたとえ信憑性が低いA社の情報であってもB社やC社が同じ情報を発信していれば受け入れることができるように、蛸壺化することを防げます。

 この重み付けは不変ではなく、むしろ常にアップデートしていくことが必要です。そしてこの重み付けこそが是非の判断であり、個々人が手放すべきではないものだと考えます。