忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善意は価値があるからこそ慎重かつ丁寧に

 心底、嫌な話ではあります。

 

善意の価値

 人の善意は大変に価値のあるものです。善意は社会という巨大な機械を円滑に動かすための潤滑油であり、これが無ければ世界は不快な音を立てて摩耗していくばかりとなります。善意とはそれ単独で成り立つものではないものの、歯車を回すためには無くてはならない必須の存在だと言えるでしょう。

 

 しかしながら、善意は慎重かつ丁寧に扱わなければならないものでもあります。環境や装置によって適切な潤滑油が変わるように、善意も時と場合を選んで用いられなければなりません

 何故ならば、繰り返しとなりますが善意とは大変に価値のあるものだからです。

 残念ながら世の中には詐欺師や泥棒など悪行を躊躇わない輩が存在します。そしてそういった輩が狙うのは価値のあるものです。

 つまり、貴金属や金銭と同様に悪人は人の価値ある善意を掠め取ろうと狙っています。寸借詐欺や募金詐欺など他者の善意を食い物にしようとする悪行は巷に溢れているようにです。

 当ブログで度々言及してきていることですが、善意が必ずしも善行になるとは限りません。良かれと思ってやったことが裏目に出ることや、善意の発露が他者にとっての悪になること、そして悪人に利用されて悪行に用いられることは残念ながら起こり得ます。もちろんそれは結果論に過ぎず、善意そのものの価値を毀損するわけではありません。とはいえせっかくの価値あるものが価値ある結果をもたらせないのでは、やはり損失ではあるでしょう。

 だからこそ、私たちが価値あるものを取り扱う時には慎重かつ丁寧に扱うように、善意も慎重かつ丁寧に扱う必要があります。せっかくの善意を無駄にせず、善行へと昇華できるように。

 

偽善に関する考察

 「やらない善よりやる偽善」

 良い格言だとは思っていますが、その意味するところは少し難しいと考えています。それはこの善の指すところが「善意」なのか「善行」なのかが曖昧になってしまっているためです。

 偽善は精神的な善意と行動的な善行の両方で用いられる概念だと言えます。善意を装いつつも内心では善意が無い場合にも用いられますし、善行を装いつつも実際には独善的利益を得るための悪行が行われている行為にも用いられます。

 「やらない善よりやる偽善」が意味を持つのは前者の精神的な善意でしょう。後者の行動的な偽善だとすれば「やる偽善」が「悪いことをしましょう」となり、とても悪い意味になってしまいます。

 

 ただ、私の個人的な見解としては善意の有無はそこまで重要ではないと考えています。

 もちろん善意はとても価値があるものであり、多くの善行は善意から生じることは疑いようがありません。だからこそ善意には大きな価値があります。

 ただ、必要なのは自身や他者にとって効用のある善行です。誤った取り扱い方をした善意では善行を生むことはできません。

 つまるところ、「やる偽善」とは精神的な善意の有無を問わず他者に貢献する行為であると考えています。善意があろうがなかろうが善行を為すからこそ「やる偽善」であり、ここで重要なのは善意の有無よりも善行であるか否かです。善意があればいいわけではないことは留意する必要があると考えます。

 

結言

 とても厳しい表現を用いるのであれば、知性の伴わない善意はあまり望ましくないものです。考えなしの善意は悪人によって利用されかねません。心底嫌な話であり、心苦しくありますが、善意とは善行を生み出す素晴らしく価値のあるものであり、だからこそその価値を認識して慎重かつ丁寧に取り扱う必要があります。