いやいや、とてもとてもアンタッチャブルな記事タイトル。怖い怖い。
宗教について半可通がああだこうだ語るのは良くないことは承知していますが、思うところをちょっと述べてみたくなったので恐る恐る書き連ねてみたいと思います。
輪廻転生とは
人は死んだ後にどこへ行くのか。
誰も経験したことが無くその答えを知らない死の先について、天国であったり、来世であったり、無であったりと、ある答えを提示し心の平穏を与えることが宗教の役割の一つです。
輪廻転生は死の先に対する答えの一つであり、ヒンドゥー教や仏教、ジャイナ教やシーク教など主にインドで生まれた宗教における概念です。インド哲学では人や動物など命あるものが死した後、前世における業(カルマ)に応じて新たな生命として転生するとされています。
この輪廻の輪から抜け出す、すなわち解脱することこそがインド哲学を下地としたこれら宗教の目標です。
カルマ・原罪といった倫理規範
ヴェーダの宗教におけるカルマ、アブラハムの宗教における原罪といった概念はそれ単体では決して悪いものではないと思っています。それは「悪いことをしてはいけません」「より良く生きましょう」という倫理的な指針であり、これら指針があったからこそ人間社会は善というものの形を捉えることが出来ているのだと考えるからです。
宗教があまりに身近で馴染み過ぎていて実感を持たない日本人からしたら分かりにくいことですが、宗教こそが倫理の下地です。その点でカルマや原罪といった宗教的価値観は否定し得るものではないと考えます。
輪廻とカルマを繋げるのは・・・
しかしながら、カルマ単体は倫理規範として良いと思うのですが、これを輪廻と結びつけるのは些か好みではないと言いますか、それは現代倫理とは少し乖離するのではないかと考えています。
前世のカルマに応じて転生先が変わる。良いカルマを積めば優れた人に、悪いカルマを積めば悪人や畜生に転生する。だから悪いことをせず、良いことをしましょう。
この論理には絶対的な自我、すなわち我(アートマン)が不可欠です。前世と今世、そして来世の繋がり、カルマの持ち越しという概念は全て同一のアートマンが継続されるとしているからこそ論理が成り立ちます。死後にアートマンが継続されないのであればそれはただの別人であり転生とは言えないでしょう。輪廻には前世の私と今世の私、そして来世の私に一貫性が必須です。
そしてそのアートマンに貼り付いたカルマによって優劣が付くというのが輪廻の概念である以上、それは明白に生まれながらの差別を許容するということです。
「貴方は前世のカルマによって今生では劣った存在である」
「あの人が優れているのは前世のカルマが良いからだ」
言葉を変えてみれば分かりやすいことですが、「彼は黒人だから劣っている」「彼女は女だから駄目だ」と言っているのと同義です。これはまさしく個人が生まれながらに持つ属性での差別であり、現代社会が許容していい概念ではないと考えます。
繰り返しますが、カルマ単体を倫理規範とするのは構いません。「悪いことをしてはいけません」「より良く生きましょう」という指針は社会に必要です。しかしそれを前世来世に拡大する輪廻の概念は絶対的な差別構造を内包していることから、現代社会の倫理には適さないのではないかと考えている次第です。カルマ単体、輪廻単体はともかく、これらを組み合わせた場合は弊害が大きいと愚考します。
差別はいけない、という思想自体が現代倫理の元となるリベラリズム、宗教観に拠るものですので、差別の是非について宗教論争をする気は無いのです。まあ単純に好みではないという話です。まさしく先に述べたように、ただただ、私の好みではないのです。
余談
仏教における論争のひとつに釈迦は輪廻を否定したかどうかというものがあります。その答えは人それぞれ、宗派それぞれになるとは思いますが、実用主義者である私からすれば釈迦がどう考えていたかなんてどうでもいいと思っています。現代社会に生きる我々にとってその概念は必要かどうかということで取捨選択すれば良い話で、釈迦が言っているのだから正しい、間違っていると権威主義的に取り扱う理由はありません。むしろ「釈迦が言っていようがいまいがどっちだっていいじゃん」と考えるほうがプラグマティズム的で仏教的発想だと思うくらいです。