忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「嫌い」と「悪」の狭間

 善悪ではなく好き嫌いの話だ、とした趣旨の文章を書こうとした際、手が止まりました。

 好き嫌いを意味する言葉の一つに「好悪」がありますが、嫌いとは悪なのでしょうか

 

善悪の定義

 善悪は道徳・倫理における概念です。

 様々な人が定義する言葉であり、時代や地域、宗教や学問によっても意味合いの変わるものであることから、万人の納得する簡潔な定義をすることはできかねます。

 よってまずは本記事での善悪を定義します。今回はとても大雑把ではありますが、西洋と東洋で善悪の基準を区分してみます。

 

 西洋的な善悪はどちらかというと個人に帰属するものです。個人にとって有益であったり快楽をもたらすものは善とされます。その反対が悪です。社会的に望まれる行いや望まれない行いは個人の善悪をとは別の階層に存在しており、それは正義や不正と呼ばれます。

 西洋的な善(good)は時に個人間で衝突する概念であり、ある人にとって善でも他者にとっては悪であることがあるため、それを社会的に調整するため正義(Justice)が存在します。だからこそJusticeには東洋の"正義"にはない公正という意味が含まれています。

 東洋的な善悪はどちらかというと社会に帰属するものです。個人の有益性や快楽性ではなく、最初から社会的な善悪が存在しています。東洋において善と正義はほぼ近似する概念です。ある人に利益をもたらす行為であっても他者が不利益を被るのであれば、それは独善であり悪と認定されます。

 

 人の物を盗んで利益を得る行為を例としましょう。

 西洋的に見れば、利益を得ること自体は個人にとって有用であり、善の行為です。しかし他者に損失を与える行為は他者からすれば悪であることから、これは不正義の行為に該当します。

 東洋的に見れば、個人にとっての有益性は関係なく、これは悪の行為です。

 

 この分類も極めて一面的なものです。実際はもっと異なる定義や見解が存在しています。善や悪、正義や不正義は単一的な定義をすることがとても難しいものです。

 ただ、今回は上述した「西洋的善悪(個人基準)」と「東洋的善悪(社会基準)」をベースに考察を進めていきます。

 

倫理と感情の混在

 好き嫌いは個人に帰属する感情です。

 西洋的な基準で言えば個人の好き嫌いは直接的に善悪と連動します。好きなことをすることは個人にとって有益であることから善であり、嫌いなことをすることは悪です。

 しかし東洋的な基準では好き嫌いと善悪は必ずしも連動する概念ではありません。東洋的な善悪の基準に個人の好き嫌いは関係なく、社会にとって有益かどうかが善悪の判定基準だからです。

 その結果、東洋的な基準からすれば嫌いと悪には乖離が存在します。好悪(好き嫌い)の嫌いは必ずしも悪ではなく、たとえ個人がある事柄やある行為を嫌っていたとしても社会的に有益であればそれは悪とは認定されません。

 

結言

 社会問題を論じる場において時々見かけるコメントに

「個人の好き嫌いに過ぎない」

「お前の好き嫌いを人に押し付けるな」

といったものがあります。

 そこにあるのは実は善悪の判定基準の差異に過ぎないのではないか、そう思った次第です。基準の取り方次第で、人によっては嫌いなことはイコール悪であり、人によっては嫌いなことは悪とは限らないわけですから。

 どちらが正しい判定基準というわけではなくただの考えの違いであり、それがすれ違っているだけなのではないか、そう思います。

 

 

余談

 環境問題において英語圏でよく用いられる概念にClimate Justice(気候正義/気候公正)がありますが、これは善悪の概念を理解する上で良い事例かもしれません。

 日本語で「気候正義」と訳すと、それは個人にとっても社会にとっても善いことだと理解されることが多いでしょう。正義である以上、東洋的には善に相当します。

 しかしこの"justice(正義)"は実際には西洋的な基準です。

 つまり、個人にとって悪である行為を受け入れる、すなわち日常が不便になったり望ましくない結果になろうとも社会における正義を求めよう、とする考え方です。

 

 

私事妄言

 出張と、そしてその間に溜まっていた仕事のせいで、日課としていたブログ巡回をまったくできておらずストレスが溜まり気味です。

 隙を見て仕事中に巡回してやろうかしら。(これは悪)