家庭や学校の教育では善を為し悪を厭うことを学び、物語によって善を肯定し悪を否定することを刷り込まれることから、大抵の人は善を好み悪を嫌うように育つかと思います。もちろん例外はあるものの、善を好み悪を嫌うことは社会的に正しい定型として存在するでしょう。
概ねどのような社会においても善悪の定義は社会の維持管理に資するかどうかで定まっている以上、これは持続的な人類社会を保つ観点からして妥当であり、善を好み悪を嫌うように人々を強制することは社会的に必要なことです。
ただ、世の中にはこの刷り込みが度を過ぎて、逆になっている人がいるように見受けられます。
対偶と逆
善を好み悪を嫌うことの理屈を少し整理していきましょう。
まずはこれらの命題を定義します。
【善ならば好き】
【悪ならば嫌い】
冒頭で述べたように、善を好み悪を嫌うことは人として正しいことだと定義されており、この両命題は社会的に真です。
この命題の対偶は次のようになります。
【好きでないならば善ではない】
【嫌いでないならば悪ではない】
命題の真偽と対偶の真偽は一致するため、これも真です。
ではこの両命題の逆は何かと言えば、次のようになります。
【好きならば善】
【嫌いならば悪】
この真偽は定まりません。逆の真偽は一意的ではないためです。
むしろ、はっきり言えばこの命題は偽です。世の中は善悪や好き嫌いの二項に分割できるものではなく、『好きでも嫌いでもないもの』と『善でも悪でもないもの』が存在します。
よって【善ならば好き】と【悪ならば嫌い】の命題が真だとしても、【好きだけど善ではない】や【嫌いだけど悪ではない】なども存在し得るため、逆は真とは言えません。
好き嫌いではなく善悪が基準
刷り込みの度が過ぎて逆が真ではないことに対して無理解であると、善悪が好悪の感情を決めるのではなく、好悪の感情が善悪を決めることになりかねません。
「これは善だ、だから好きだ」
「これは悪だ、だから嫌いだ」
この2つは命題に沿っており、問題ありません。
しかし、逆転してしまうと少し危険です。
「これは好きだ、だから善だ」
「これは嫌いだ、だから悪だ」
命題の逆が真とは限らない以上これは必ずしも正しくはなく、時に誤った思考となってしまいます。
残念ながら、世の中にはこのような機序で思考をしている人が若干見かけられます。自身の好むものを無謬の善として絶対視する人や、自らが嫌いなものを絶対的な悪として攻撃する人などはその典型例です。
しかしながら、善悪とは社会的合意の元に定まるものであり、個人の好悪が善悪を定めるのではありません。
この点に誤解があると、例えば嫌いな人がいるとして、これを【嫌いならば悪】だと認知してしまうことで「嫌いな人」を亡ぼしたり滅したりしなければならない攻撃すべき悪の存在だと誤認してしまいかねません。
「嫌いな人だから攻撃してもいい」は理屈として成り立っていませんが、その背景に「嫌いな人は悪である」とする思考が潜んでしまうと、攻撃することへの言い訳が生じるわけです。
しかし本来は善悪で判定することではなく、それはただ「嫌いな人」に過ぎません。何も攻撃的になる必要はまったくなく、距離を取るなり接触を減らすなりすればいいだけです。
議論や政治の場でも同様です。好きであっても絶対的な善とは限らず、嫌いであっても打ち倒すべき悪だとは限りません。その価値判断を混同すると余計な争いが生じます。
結言
人は幼少期から善を好み悪を嫌うよう教育による刷り込みを受けるものであり、それ自体は持続的な社会のために必要なことです。
しかし善悪と好き嫌いは必ずしも一致するものではなく、一方通行の関係にあります。よって善悪と好き嫌いを連動して考える際には意識的な切り離しが必要です。
好きなものであっても善とは限らず、嫌いなものだとしても悪とは限らないと理解することができれば、議論でやたら攻撃的になることも避けられますし、他者に対して寛容や受容の精神を持つことができます。