忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

差別に関する考察

 文字や言葉は人だけが使うものであり、さらに言えば人の意思を音や形で表したものであるため、言霊というほどではないのですが文字を記述したり言葉を発したその人の気持ちが明確に付随するものだと思います。霊力という言葉を用いなくても気持ちがこもるというのは良悪正邪を問わず存在するでしょう。

 読者登録させていただいているブログのある記事で「理解できない外国語で暴言を吐かれてもダメージにならない」と想定されていたのですが、恐らく私は外国語で暴言を吐かれても傷つくと思います。何を言っているかは分からなくても相手に暴言を吐くという悪意は伝わってくるからです。

 私はなるべく悪い言葉、今風の言葉で言うとチクチク言葉は使いたくありません。「あっしのようなもんが人様の気ぃを悪くするようなことするたぁ滅相もねぇ」というような卑下・謙遜の気持ちが無きにしもあらずですが、どちらかというとネガティブよりもポジティブなほうが好きだからです。

実際できているのか?

 この記事を書いている時点での過去106記事を検索してみました。

  • 好き:24記事
  • 嫌い:7記事

 うーん、意識しているのに7記事も嫌いという言葉が出てきてしまっています。内訳はほとんどが引用の形ではあるのですが、1つ明確に自分の意思を乗せているのは「理不尽な差別や偏見は嫌い」というところでした。もちろん気持ちはその通りであり好きではないのですが、もう少し尖っていない表現をできるように気を付けたいものです。

 あと昨日の記事では意識的かつはっきりと明確に「夏嫌い」と書きました。仕方ないです、こればかりは。夏の奴も悪いんですよ、暑くしおってからにー。もっとこう手心的な気持ちを夏君には持ってほしいです。肌が弱いから夏は膝裏に汗疹ができて痛いんです。

差別を無くすことはできない

 「理不尽な差別や偏見」について少し掘り下げてみましょう。物事を複雑にしているのは、誰かや何かを愛したり好むというポジティブなことも差別だということです。誰かを貶めるのと慈しむことは正負・善悪の違いこそあれ絶対値としては同様に差を付ける差別行為です。自らの意思で行動する生き物は全てこの差別から逃れることはできません。これは人であるかを問いません、意思を持つ生き物全般の話です。

 母が我が子を愛する気持ちは明確に別の子に対する差別ですが、これは極めて尊いものであり否定されるべきものではありません。自らの群れや家族、組織や社会を愛して優先する生き物の社会性も素晴らしく価値があります。だからこそ差別を無くすことはできません。差別を無くすにはこれらのような善の意思すらも捨て去る必要があるからです。しかし生き物としてそうあるべきではないでしょう。

 私たちが忌避すべきは相手から奪い、貶め、蹴落とすような理不尽な差別です。それは決して進歩に向かうことはありません。互いに与え合い、許し合い、支え合うことができる建設的でポジティブな差別だけを大切にすべきです。私がポジティブを好みネガティブを好まないのはこのような考えを持っているからです。

 もう一堀するとすれば、そもそも進歩すべきなのかというところです。こればかりは個々の価値観に依るところではありますが、私としては現世を楽園だとは思っていませんし、人々の意思を無くしてまで差別を無くすべきだとも思っていない以上、差別があっても幸福な世界になるまでは進歩できるといいなと考えています。ポジティブな差別だけになればそうなれるのか、まだ想定し切れてはいませんが。

 ああ、私は自由主義者ですが世のリベラリストには完全に同意しきれない理由が少し言語化できた気がします。彼らのいう公平な社会とはすなわち差別の無い社会ということであり、彼らは差別を無くせると考えているのでしょう。私は差別の無い全てがフラット・公平な世界が幸福であるとは思えないのです。もう少し言語化を進めることができればこのことについても別の記事でまとめたいと思います。

余談

 「チクチク言葉」って分かりやすい表現ですのでこの言葉自体は好きです。小さい子にもイメージしやすくていいですよね。オノマトペは学問的には幼児な言葉として扱われることが多くありますが相手にイメージを伝えるにはとても適した語彙です。チクチクという言葉からは針のような先端が鋭利な物質が肌に当たる感覚、繰り返される連続的な刺激とそこから想定できる刺すような鋭い痛みを連想することができます。そういうチクチクした言葉は相手に痛みを与えるということが分かりやすくなるなんとも適切な擬態語です。