忘れん坊の外部記憶域

主に時事やビジネス、政治経済や興味を持ったことについて書き散らしています。

分かり合うことと同化することの違い

 ニュースがオリンピックとコロナばかりのためどうしてもそのあたりのニュースが目に入りやすい昨今ですが、一つ気になる見出しがありました。

鉄棒「金」の橋本 君が代「しっかり歌った」 - 産経ニュース

 産経新聞ですのでどちらかというと「立派な若者だ、偉いぞ」というニュアンスだとは思うのですが、それをニュースにする必要があるのか疑問です。国旗国歌問題はセンシティブなテーマなのであまり触れたくはないところではありますが、少し書いてみます。

最初に個人的なスタンスの説明

 私は国旗・国歌法が成立する辺りで義務教育を受けていた世代のため、世間が何を騒いでいるのかまだよく分かっていませんでした。地域性もあるのでしょうが私の母校では特に騒ぎになっていなかったこともあり、この問題をまともに認識したのは義務教育を卒業してからです。

 私は君が代を歌うことには特に抵抗がありません。どちらかというと歌うことに賛成寄りの考えです。絶望的に音痴なことがコンプレックスで人前で歌う事自体を避けてきた人生のため式典などでもあまり大きな声では歌ってきませんでしたが、小さな声では歌っています。いや、歌詞は好きなのですが、その、メロディがですね、音痴にはとにかく歌いにくいんです・・・

 また、私は両論あってこその民主主義だと考えているため、君が代に対して賛成反対どちらもあって良いと思っています。むしろ避けるべきは意見の押し付けです。すなわち「国民として歌うべきだ」や「軍国主義の象徴であり歌うべきではない」といった考えを押し付けることこそが好ましくありません。楽観主義的な考え方ではありますが、意見には多様性があったほうが良いと思います。

分かり合うことと同化することは同義ではない

 それぞれの意見や考えは分かります。賛成反対どちらの見解にも同意できる点がありますし信念や主義としてそれぞれ正しいと思います。しかし信念や主義を他者に強制するのは別の話です。「歌わなければいけない」と「歌ってはいけない」はそのどちらであっても、その意見を押し付けるということは分かり合うことを拒絶して相手の意思や行動変容を強制しようとする行為であり、他者への暴力に近いものです。

 分かり合うことと同化することは同義ではありません。分かり合うというのは互いの意見を尊重し合い相手を対等な人として扱う行為です。そこには他人に対する敬意があります。同化の強制は相手の意見を無視し相手を低位の人として扱う行為であり、分かり合うこととは真逆のものです。同化の強制には他人に対する敬意が存在しません。やっていることは十字軍や「コーランか然らずんば剣か」と同レベルです。

 最初に君が代を例としましたが、これは何事についても同様です。「私はこう思います」「貴方はそう思うんですね」、ここまででいいじゃないですか。わざわざその先に進んで「貴方のその考えは間違っている」とか「私のこの考えが正しい」なんて同化を強制されても困るだけです。同化の強制は例えそれが善意からだとしても相手を下に見ているという点からすれば「劣った貴方を導いてあげているんですよ」と言っているようなものであり、そこには他者に対する残酷なまでの優越感からくる差別意識しか存在しません。無意識に相手を差別しているのです。それは善意からだとしても、残念ですが善行とは言えません。

 SNSでは相手を教化して同化を強制するツイートをよく見かけますが、ああいうのはあまり好みではないです。

結論

 私自身は両論併記を旨とする趣味を持っていますが、それは互いの意見を尊重するために必要だと考えているからです。両論を並べて双方の優劣を見比べてやろうというものでは決してありません。

 また多様性を良しと考えてはいますが、「多様性がなければならない」と押し付ける気持ちはありません。それをしてしまっては「多様性がなければならない」という考え1つに収束してしまい、多様性を失う行為に他ならないからです。

 そもそも「貴方」と「私」が同じ意見ではツマラナイと思います。同じ意見だったらわざわざ読んだり聞いたりする必要がないです。違う意見だからこそ糧になり、学びになり、互いの成長に繋がるものですので、違う意見こそありがたいものだと「私は」信仰しています。

 

 今回はちょっと強めの表現が多くなってしまいました。もう少し丁寧な言い回しをできるように精進します。

余談

 つまるところ、他所は他所、家は家、と言いたいわけです、オカンかな。