この駄ブログでは私の大したことない見解を脈絡なくつらつらと書き連ねています。その際はなるべく言葉にトゲが無いよう、そして誰かや何かを強く否定しないよう気を付けて書いているつもりです。時に不適切な言葉遣い、荒い表現を用いてしまうことがあるかもしれませんが、それは私の技量不足であり汗顔の至りです。
口を塞ぎ合うよりは語り合いたい
ある意見を公開するということはその反対の意見を持った人からすれば面白くないと感じる場合もあるかと思います。万人が同意できる意見などそうそうありませんのでそのような感情のすれ違いは避けようがないものです。それを絶対的に避けるためには世界中の人が黙らなければいけなくなるでしょう。誰もが何も語らなければ反対意見も出ようがありません。
もちろんそんな世界はつまらなく、望ましいものではありません。誰もが口を閉ざさなければいけない世界はただのディストピアです。それよりも個々の発言権を保ち、しかし気を遣うことは忘れず、思いやりと歩み寄りを持ってそれぞれの意見を尊重し合うほうが好みです。
とはいえこれも正論の一種でしかなく、またコミュニティの規模や性質によっては綺麗事でもあり、誰もがその営みに参加することを望むわけではありません。殺伐とした世界観を好む人だっています。そういった状況において人々はどのようにコミュニティを形成して維持管理するか、すでに各所で語り尽くされて何番煎じか分からないコミュニティ論についてはまた別稿で語るとします。
今回は反対意見そのものについて述べてみます。
異論の是非は尊重の有無によって変わる
ありがたいことにこのブログを読んでくださっている方からご意見をいただくことがあり、時には「貴方の意見とは違う意見を持っています」という趣旨のコメントをいただけます。
これは私としては大変に嬉しいものです。まさしくこういったやり取り、意見交換こそが私の好みだからです。イデオロギーや党派性に凝り固まった思想は蛸壺化してエコーチェンバーを引き起こしたコミュニティで発生するものであり、それを避けるには異なる意見、違った視点が不可欠です。よって私はアサーティブであることを前提とする異論の表明を望ましいものと考えています。
異なる意見を述べる際にはアサーティブな方法とノンアサーティブな方法があります。
アサーティブなやり取り
「私はこういう意見を持っています」
「貴方はそういう意見なのですね、私はこういう意見です」
「そういう意見もあるのですね、そうするとこういう意見もありそうです」
ノンアサーティブなやり取り
「私はこういう意見を持っている」
「それは間違えている、こっちの意見が正しい」
「馬鹿じゃないか、こっちが正しいに決まっている」
どちらも異なる意見を提示しているという点では同質ですが、アサーションであるか否か、すなわち相手を尊重する意思の有無が大きく異なります。
アサーティブなやり取りでは相手の意見を否定せず双方の意見を並列に並べているのに対して、ノンアサーティブなやり取りでは双方の意見を否定することに終始しています。前者は1+1どころか新たな意見に止揚できる可能性があるのに対して後者は多くても1しか残らず、悪い場合は対消滅して0になるかもしれません。それはまったくもって建設的ではないです。
もちろん必ずしもアサーティブでなければいけないというわけでもなく、建設的な議論ではなくただ相手を否定したいだけの言説を語る自由もあります。それは個人の自由です。但しそれが許されるのは自らの意見も尊重されないことを受容する場合のみです。アサーションであることを拒むのであれば壁に向かって罵言を吐いているというような扱いを受け入れなければなりません。
敬語:相手に対する敬意の示し方の一つ
相手に対する敬意を示す方法は様々ありますが、文字のやり取りで一番分かりやすいのは敬語でしょう。
敬語の分類は様々ありますが、その1つ、使われ方で分類すると2種類あります。絶対敬語と相対敬語です。
絶対敬語は話し手と聞き手の関係性を問わずに決まる絶対的な基準による使い方を意味します。絶対的基準とは話す対象が自分よりも目上である、先輩である、というようなことです。対して相対敬語は話し手と聞き手の関係性によって使い方を変える敬語です。対象に対して用いる敬語は聞き手との関係性によって変化します。
(例)絶対敬語と相対敬語の違い
聞き手が母親
【絶対敬語】お母さま
【相対敬語】お母さま
聞き手が友達
【絶対敬語】お母さま
【相対敬語】母、母さん、など
まあ、今どき「お母さま」と言うかはさておき、相対敬語では敬語の使用有無が話し手と聞き手の関係性によって変わるということです。
この違いをもっとシンプルに述べましょう。
絶対敬語は上下関係を元にしています。つまり「俺は年上なんだから敬語を使え」「ネットは上下関係が無いから敬語は不要」というのは絶対敬語の考え方と言えます。
それに対して相対敬語は相手への敬意を示す自らの心持ちが元になります。
現代の日本語はほぼ相対敬語であり、絶対敬語はほとんど用いられていません。よって現代日本における敬語の使用有無の基準は相手に敬意を示すかどうかという意思次第です。上下関係で敬語の使用有無を決めることは絶対的な誤りとは言えませんが、正しい敬語とは言えません。
以上より、アサーティブなやり取りを行う上では相手への敬意を示す必要があり、現代日本であればその方法の一つとして敬語を用いることが適切だと言えます。
相手の意見が自分にとって是非とも反論したくなる意見であるからこそ敬意を示して伝えることが望ましいのです。そうしなければただの意見の否定に堕してしまい、自らの意見が相手に尊重されることは無くなってしまうことでしょう。
余談
まあ、とはいえあまり丁寧が過ぎるのも慇懃無礼に取られる可能性があるので難しいものですね。特に相対敬語は親疎関係も表すものですので、人によっては心の距離を感じてしまいますし。なんにせよTPOが肝心だという普通の結論になりそうです。