忘れん坊の外部記憶域

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反出生主義のロジックと公理

 親ガチャという言葉がバズって以降、少し勢いが衰えていた反出生主義も再び話題に挙がるようになりました。今回は少しヘビーなテーマとして反出生主義を取り上げてみます。反出生主義は”主義”であり、つまりは考え方の話である以上良い悪いや優劣は水掛け論となって意味がありませんので、そのロジックについてのみ考えてみます。

 ただ前提として、私自身は反出生主義にあまり同意していない立場です。そのため反出生主義を好む方にとってはあまり心地の良いことは語れないかもしれませんがご了承願います。

反出生主義に関して

 反出生主義の詳細について語るには相当な紙面が必要になること、そして私のようなものが語りつくせるほど簡単な内容ではないことから、概要のみ。

 反出生主義は誕生や出産を否定する考え方です。古今東西の哲学や文学で語られてきたテーマではありますが、近年になって論理的な補強がなされました。論理のベースは南アフリカケープタウン大学の教授デイヴィッド・ベネターの唱える「苦楽の非対称性」です。ベネターは以下の二つを命題として、論理的に「苦痛」と「快楽」は非対称であることを説明しました。

  • 「苦痛」の存在は悪い
  • 「快楽」の存在は良い

 苦痛と快楽を受ける主体の存在有無を仮定した場合、ここに非対称性があるとベネターは考えます。説明がややこしくなるため、あまり良くないですがWikipediaから引用してしまいます。

たとえ苦痛を受ける主体がいないとしても「苦痛の欠如」は「良い」。
苦痛を受ける主体が存在する場合、その苦痛が欠如したとすれば「良い」。これはまた苦痛の主体が存在しなくなることによってのみ苦痛が欠如するのであれば、やはりそれは「良い」
苦痛を受ける主体が存在しない場合、苦痛は欠如している。存在したかもしれなかった人間への潜在的な利害において、苦痛の欠如は「良い」。
「快楽の欠如」は剥奪される主体が存在しないならば快楽の欠如は「悪くない」。
快楽を剥奪される主体が存在する場合、その快楽の欠如は「悪い」。
快楽を剥奪される主体が存在しない場合、その快楽の欠如は「悪くない」。

 ベネターは苦痛の欠如はいかなる場合においても良いものであるが、快楽の欠如は主体が存在しない場合は悪くないと結論付けました。存在しないものの快楽が無いことを嘆く必要は無いということです。つまり苦痛と快楽には主体の有無によって非対称性があり、苦痛は無いことが常に良いことだが快楽は無くても良い場合があるということになります。

 以上より、人はこの世に存在すると「苦痛」と「快楽」を得ますが、非対称性によって快楽よりも苦痛のほうが存在すべきではないことから、そんな苦痛をもたらす誕生や出産は悪いことであるというのが反出生主義の大まかな概要です。もちろん細かく言えば負の功利主義や赤ん坊の意思決定問題などまだまだ深掘りする話がありますが、まあ今回は反出生主義の大まかなロジックを述べるだけですのでここまでとしましょう。

公理の違い

 まず大前提として、ベネターの立てた公理に基づけば反出生主義のロジックには特に瑕疵がありません。感情的に誕生や出産を否定しているのではなく、誕生や出産を否定することが道徳的かつ合理的だという彼の見解にも間違いは無いと言えます。

 よって反出生主義に対して「悲観的だ」とか「今まで人生で良いことを経験していないからだ」とか「生きていればもっと良いことがある」と言うような否定をするのは無意味です。苦楽の非対称性のロジックには瑕疵が無いことから、そのような反論こそが感情的で非合理的だからです。

 しかしながら私のように反出生主義にあまり同意していない人も多数います。だからこそ論争になるわけです。なぜ合理的で瑕疵の無い論理に対して反論が生まれ論争になるのか、それは互いの公理が異なるからです。

 公理とは命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のことです。この世のあらゆる論理体系は証明されていない仮定である公理に基づいて作成されています。これは非ユークリッド幾何学の誕生過程やルイス・キャロルのパラドックスのような事例を見ると分かりやすいでしょう。点と点が交わる直線は一本しか引けないというのも公理ですし、平行線は交わらないというのも公理です。これを変えても非ユークリッド幾何学のように異なる論理体系を作ることが可能です。A=BでB=CならばA=Cになるというのは、なぜそうなるかを証明することはできません。そうなると決めたからであり、それが公理です。

 公理はどれだけ明朗で感覚的に納得がいくものだとしても証明されていない仮定です。よってそれがすれ違うことは矛盾無く起き得ます。例えばそもそも苦痛の存在は悪い”とは限らない”と考えることもできます。スポーツや勉強のように苦難や苦痛の先にしか存在しない快楽というものが存在するからです。また、生まれる前の生命は存在しないものであるため快楽の欠如を嘆く必要は無いという考えは、輪廻転生を信じる熱心な仏教徒やヒンドゥー教徒からすれば同意しかねる公理でしょう。

 つまり反出生主義の仮定する公理系においてその論理は無矛盾ではありますが、それが万人に同意できる公理かどうかは別だということが論争を招く理由になっています。

公理の違いを理解する

 異なる意見がぶつかった時に合っている間違っていると争うのは不毛なことが多々あります。それは論理の成否ではなく、前提条件たる公理が互いに違う場合があるからです。そのような状況で相手のロジックとこちらのロジックをぶつけ合っても無意味でしょう。別の公理系が並立して成り立つことは当たり前に起こり得ることだからです。

 この手の主義やイズム、信念や思想に関わる公理は個々人の人格に強く結びついています。よってそれを否定されることは人格を否定されることとほぼ同義であり、人格否定の果てにあるのは論争や争いのみです。貴方は貴方、私は私、それぞれの公理を理解し合い、侵犯しないことが最も平和的かつ穏健だと思うのですが、いかがでしょうか。

余談

 とはいえ、「私の思想を人に押し付けるのが善」という公理を持つ人が居る場合、どうすればいいかは難しい課題として残ります。どうすればいいのでしょうね。やっぱりヘビーなテーマです。