唐突に仏教の話をします。
と始めると日本ではどうしても「宗教の話はノーサンキュー」となりがちなので難しいところですが、そもそも仏教が宗教かと言えば必ずしもそうとは言えません。宗教か否かを『教条主義(ドグマティズム)であるか否か』と雑に定義すれば、仏教には極めて宗教的な派閥もあれば哲学的な思考に傾倒している派閥もあり実に多種多様です。
例えば釈迦の教えの基礎である中道・八正道・四諦あたりは教義というよりもむしろ哲学的な考え方の集合であり、これらを軸とした初期仏教や一部の部派仏教は釈迦の教えの分析や批判、拡張や修正などを行っていた点で非教条主義であり、そこまで宗教的ではありません。彼らはある種の学問集団であり、数学や哲学を重視していた古代ギリシアのピタゴラス教団に近いと言えるかもしれません。もちろんこれはかなり雑で不正確な峻別ではありますが。
対して大乗仏教の一部などは長い歴史をかけて磨かれてきた経典を学ぶことや念仏を唱えることに傾倒しており、それらは教条主義的な宗教だと言えるでしょう。
日本のメジャーな仏教はほぼ大乗仏教の系統であるため、多くは教条主義的な宗教です。
よって「日本の仏教は宗教」だとした認識は概ね適切と言えます。
ただ、広い視野で見れば「仏教は宗教」は必ずしも真ではない、そういったややこしい話です。
中道と三観
大乗仏教も全てが教条主義的というわけではありません。大乗仏教の祖とされる龍樹は当時の部派仏教を否定しており、それは教条主義とはかけ離れた態度だと言えます。
今回はその龍樹が確立した三観についてざっくばらんに話していきましょう。
ちなみにこの辺りの話は宗派ごとに見解が異なるところですので、これが絶対的に正しいなどと宣うつもりは一切ありません。こんな考え方もあるとだけ思ってもらえますと幸いです。そもそもこの手の教えを簡潔にまとめようとすると必ず欠落が出ますので、話をするのは触りだけです。
釈迦の教えの一つである「中道」とは、快楽に囚われるのではなく、苦行をひたすら積めばいいわけでもなく、両極端に偏らず中正を保つことを良しとする考えです。
龍樹はこの中道を分かりやすく分類するため三観(仮観・空観・中観)を提唱しました。なお、龍樹を開祖とする宗派を中観派と言います。
仮観(けがん)とは私たちの普通の物事の見方です。私たちが目を通して見ている実体としての物事の見方を指します。
空観(くうがん)とは物事の本質を見ようとする見方です。この世の全ては因縁に基づいて存在している実体を持たない空であり、物事を見たままではない異なる見方で捉えます。
中観(ちゅうがん)とは仮観と空観の双方を理解した上で、それらに囚われず物事を自由に見る見方です。このような見方を中道と言います。
このままではまだ分かりにくいため、例えば石ころがあるとしましょう。
これは普通に見ればただの石に見えますが、昔は巨石の一部だったかもしれませんし、将来は砂利になっているかもしれません。石であるのは今この瞬間にその存在を捉えているために過ぎず、それは長期的な視点からすれば”仮”の姿であり本質は異なるものです。
これを石とストレートに見る見方が仮観、これを本質的にもっと違うものや、或いは人間との因縁によって石と定義されているに過ぎないと捉えるような見方が空観です。そしてそのどちらの見方もあると理解した上でそれらに固執・傾倒しないことが中観です。
仮観・空観の問題
仮観に生きる人間は物事を物質的に認識するため、極めて物質的な欲望を満たすことに傾倒してしまいます。物質的な欲求は果てしないものであり、欲求が満たされなければ苦を生みます。資本主義的欲求とそこから生じる苦しみはまさに仮観が生み出す問題だと言えるでしょう。
かといって空観のみで物事を見ることも危険です。この世は本質的に無意味であると虚無に陥ったり、仮観の世界に危害を加えることを厭わなくなることすらあります。人生の無意味さに打ちひしがれるような物事の見方は誤った悟りであり、空観に傾倒した弊害だと言えます。
中観とは言ってしまえば意味を持たせることです。仮観を知り、空観を理解した上でそのどちらにも囚われず、矛盾対立を超えてより善い認識を得るために必要な考え方です。
1万円札は、仮観の視点で見れば1万円です。
空観の視点で見れば、ただの無意味な紙切れです。
中観の視点からすれば、それは交換によって社会を成り立たせるための意味がある物質です。ただの1万円であり、ただの紙きれであり、そして存在に意味がある物質だと言えます。
人間は、仮観の視点で見ればただの人間です。
空観の視点で見れば、ただのタンパク質や水の化学反応した集合です。
中観の視点からすれば、それは何かしらの役割を持つ意味ある個人です。仮観に囚われて物質を奪い合う意味も無ければ、空観に惑わされて存在の無意味さに虚無感を覚える必要もない、意味ある存在だと言えます。
結言
世の中には仮観に染まって物質的欲求を追求する人もいれば、空観に傾倒して虚無を覚える人もいます。
それらはどちらも苦に繋がる思想であり、極端に傾倒することは避けたほうがよいです。
両極端に偏るのではなく中道を行く。
実体と本質を理解したうえで中観によって意味を持たせる。
相当に端折って説明をしてみたため雑になってしまいましたが、このような考え方を持つことができれば、少なくとも人生は生きやすくなるのではないかと考えています。
余談
長く説明すると冗長で、短く説明すると不足する、なんとも難しい話です。
例えば、もっと噛み砕いて言ってみましょう。
この世の全てに価値の序列をつける見方が仮観、
この世の全てが無価値だと捉える見方が空観、
この世の全てが有価値であると考える見方が中観、
だと私は考えています。
ここまで圧縮するともはや伝わる気がしません。