不定期の"中道"擁護。
政治的中道にはそろそろ日和見主義・機会主義との決別となる論理が必要ではないかと思っています。
中道の整理
そもそも「中道」自体がとてもややこしい概念です。
仏教の中道、儒教や西洋倫理の中庸(中道)、政治用語としての中道などはそれぞれ若干意味合いが違います。そしてそれぞれの中でも状況や時代、宗派や思想ごとに微妙な解釈の違いがあり、もはや厳密な定義などしようもありません。
ただ、中道の基本エッセンスは極端を避けることです。仏教における苦行と快楽、儒教における過剰と不足、政治における保守とリベラルのような二項対立構造において、それら両端への偏りを避けることが中道の主軸となります。
真ん中を取ることではなく、端への偏りを避けることが中道です。
そしてそのような考えにおいて「どうやって極端を避けるか」「どうやって二項対立構造を解消するか」など、思考の方向性や方法論の差異が異なるために中道は様々な解釈を持ちます。
例えば中観派的な中道であれば「そもそも対立は無意味である」と超越的に処理しますし、アリストテレスの中道であれば「ほどほどが一番、バランスよく」とそもそも対立構造自体には介入しません。また、政治の中道は右派と左派の中間で調整なり妥協なりを図る穏健派の印象が強いでしょう。
味方ではないから仕方がない
以上のように中道の本質は極端を避けることで、宗教・倫理・政治など用いられる分野で定義が若干異なりますが、今回はその中でも政治的中道について論じていきます。
政治的中道主義はよく「優柔不断」「どっちつかず」「無責任」「冷笑的」「何も言っていない」といった批判を受けます。
実際、現実では物事の二元論的解釈が主流であり、多くの人は片側へ立つことを良しとします。AかBか、右か左か、賛成か反対か、敵か味方か、そうやって複雑な現実を簡易モデル化したほうが理解が容易なためです。
そのような現実の場において極端を避けることこそを是とする中道は、両側からすれば同じ位置に立つ味方ではありません。二元論的パラノイアからすれば「味方でないなら敵だ」と認定されるのも止む無しです。
よって中道主義はそもそも根本的に両側から批判される構造を持ちます。
また、人によっては極端を意図的に避けるため中道のポジションに立っているのではなく、極端には立てなかったから中道に落ち着いている人もいます。古い言葉で言えばノンポリであり、言わば日和見主義や機会主義であるそれらの人々はやはり両側からすれば批判の対象足り得るでしょう。
政治的中道の線引き
ただ、政治的中道とは日和見主義や機械主義とは本質的に別物です。
まず、中道は優柔不断やどっちつかずを意味しません。
たしかに中道は極端に立つ側からすれば立ち位置を定めていない優柔不断に見えるかもしれませんが、そもそも議論や話し合いとは各所から出された意見をすり合わせてより良い結論へ至るために行うものです。
すなわち議論や話し合いを行うためには参加者全員が虚心坦懐に挑むことが前提であり、最初から「折れず曲がらない硬い信念とそれに基づく意見」を持ち込んで立ち位置を固定している人は議論や話し合いの作法を理解していないに等しいと言えます。
旗幟鮮明であることはディベートのような闘技的な討論、或いはそれこそ戦場での習いに他なりません。そのような闘争ではなく共創を重視する姿勢を取るためには中道の思想が必要であり、正しく話し合いをするのであれば必然的に政治的中道の発想が不可欠です。
中道は責任回避的、或いは冷笑的で意見がないとするのも妥当ではありません。それは中道ではなく日和見主義や機会主義を指します。
二元論的な区分を好む人から「味方でないなら敵だ」と認定されることも厭わず、いっそ両論の多面的な責任を引き受けて、それでも両論を用いてより良い結論を導き出すことを是とする思想こそが中道であり、敵対や責任を避けることは中道の思想からすれば真逆とすら言えます。
さらに言えば、少し中道を擁護する側のポジショントークとなりますが、優柔不断に見える不安定な立ち位置を取ることには利点もあり、中道は忖度や自己検閲から距離を置くことが可能です。
静的で固定的なイデオロギーに立つと、人はどうしても党派性や同調圧力の影響を受けます。所属する組織や協働する仲間に反するようなことは言えませんし、エコーチェンバー等によって思考も固定的となりがちです。中道はそういった忖度や自己検閲から距離を置き、動的な思考を取ることが可能になります。
弁証法的中道主義
すなわち、政治的中道とは弁証法的手法に近似する思想です。様々な中道の定義からすればもちろん弁証法と中道をイコールとできない場合も多々ありますが、一つの提案として弁証法的中道の理屈を構築してみます。
ここで言う弁証法とは最もメジャーなヘーゲルの弁証法です。正命題(テーゼ)とその否定或いは矛盾となる反対命題(アンチテーゼ)が生じた場合、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ)を生み出すことが弁証法ですが、これは極端を避ける点で中道的思考に近似します。双方の中間を妥協して取るのではなく双方の矛盾を乗り越えて統合する命題を確立する点でも同様です。
中道は弁証法的であるとすれば、弁証法的中道は次のように整理可能です。
- 二元論的対立を棒の両端と見なし、それら極端を避けて矛盾対立を乗り越えた重心を模索する
- 両極端を踏まえた上で創造的に新たな立場を模索する
- 妥協や優柔不断ではなく、日和見主義や機会主義とは一線を画す
- 無責任な立場を取るのではなく、より良い結論を志向することに責任を持つ
- 党派性を避けて忖度や自己検閲から距離を置く
要するに、話し合いで最適を模索する際、必然的に必要となるのが弁証法であり中道です。弁証法的中道とはそれらを組み合わせて一言で言っただけの言葉となります。
結言
先に述べたように中道は根本的に両極端から批判される構造を持っていますので仕方がないのですが、浮足立って立ち位置が定まらずにフラフラしている日和見主義や機会主義と一緒にされるのは多少業腹ですので、今後も不定期に中道を擁護する言葉を編んでいきます。